
今日、2月3日の午前9時に広瀬川の水の流れが止まります。わが家に一番近い「広東橋」の上から、昨日、眺めた広瀬川です。

上流に行くと「十六本堰」、広瀬川から端気川を分水しています。今日からの断水は『定期断水』といって、毎年春を迎える前に水路や利水施設のメンテナンスをするための断水です。広瀬川は人口の疎水、農業用水であり、発電用水ですからこういうことが必要なのです。

「十六本堰」で分水された端気川です。堰から見える橋は「端気川橋」、前橋駅へ続く新しい道が開かれたので橋も新しくなっています。

広瀬川の上流方向を見ると「十六本橋」です。私が子どものころにはこの堰まで若鮎が遡上してきていました。流れが見られるうちに、前橋の街内の広瀬川にかかる17の橋の景色を見ていただこうと、NiiSの往き帰りに写真を撮ることにしました。でも…

三河町から眺めた「桃井橋」、橋の向こうは中央前橋駅です。戦前まで旧芳町側に身寄りのない仏さんを供養する「無縁所」があったので「むえんしょばし」、転じて「めいしょばし」とも呼ばれていました。そいで、NiiSへの往きは時間の都合でここまで、あとは帰りとなりました。

NiiSで、背中の筋肉痛を訴えると、鈴木トレーナーがストレッチからいつもと違う動きを指導してくれました。ジムから出てくると、痛みが微かになっていました。笑顔で広瀬川に向かおうとしたら、ジムの近所で日向ぼっこしている2匹の猫に出会いました。

帰りは上流から広瀬川を下ることにして、岩神小学校脇で小出発電所の地下の放水路から広瀬川が姿を現すところへ行きました。右側の水路は東京電力前橋発電所の放水路です。昔はこの辺りの広瀬川を「千丈(せんじょう)」と呼んでいました。下流に見えているのは「稲荷橋」です。

「飛び石稲荷」の愛称で知られる「岩神稲荷社」です。「稲荷橋」はこの社のすぐ脇、それで「稲荷橋」と名付けられたみたいです。広瀬川は三面コンクリートの水路、群馬県企業局が広瀬川を利用して坂東水系発電所を作って以来こういう姿になり、柳原発電所までは発電用水路として管理されています。

「稲荷橋」の下の橋は「梅が橋」、1940年に「籠島食料」の工場がこの橋の袂で操業を始めました。現在の「株式会社新進」の前身です。昔の工場からは不思議な匂いが漂っていたのを覚えています。

「梅が橋」の下には「広瀬橋」、橋の袂には「アジアパン」があります。アジアパンのちょい先には共愛学園の女子高生の寄宿舎があったのを覚えています。

さらに下ると「相生橋」、袂には味噌漬けの榎田醸造、その先には共愛学園がありました。近くに相生の松があったんで「相生橋」だという話を聞いたことがありますが、不確かです。「相生橋」からは赤城山が眺められます。

「相生橋」から坂をのぼると県営柳原発電所の水槽に出ます。右側が発電所、余水吐きと水門のゲートが見えています。左側に水門が見えますが、「柳原制水門」です。この水門でここから下流の広瀬川の流水量を調整しています。冬場は2㎥/秒です。

「柳原制水門」の下流は川らしい姿になります。最初の橋は「石川橋」最近架け替えられました。詩人の伊藤信吉さんは故郷前橋に帰ってくると、この橋に立ち寄って、広瀬川の流れを見てたんだよと、俳句作家の水野真由美さんから聞きました。

詩人が懐かしむ古き広瀬川の雰囲気が残っているのは「石川橋」あたりなのかもしれません。対岸に梅の花が川面に枝垂れて咲いていました。

次の橋は「柳橋」この橋の通りを「柳橋通」と呼んでいます。橋の袂に大きな柳の木が植えられています。最近枝おろしされたんで格好悪いですけど…

次の橋は「雷神橋」、北へ行くと「橋林寺」、南に行くと「神明宮」、どうして「雷神橋」という名なのか私は知りません。

「雷神橋」の下流は国道17号竪町通にかかる「厩橋(うまやばし)」です。橋の一部に「前橋残影碑」というのがあって、相場雨流さんの「繭車曳けばこぼるる天の川」の句が刻まれています。「残影碑」ってのは受け入れがたい名前ですね…

国道を渡ると「比刀根橋(ひとねばし)」です。広瀬川は江戸時代には「比刀根川」と呼ばれていました。昭和8年に架橋され、前橋空襲でも落ちなかった橋です。

「比刀根橋」の下流に残るのは交水堰です。前橋の製糸会社の大手だった「交水社」の製糸工場の用水を汲んでいたのでこの名があると聞いています。戦時中、交水社は帝国陸軍に接収され、製糸工場はパラシュートや軍用衣服を縫製する軍需工場となりました。

「交水堰」の下流の「絹の橋」は歩道橋です。昔からこの場所に人が渡れる狭いコンクリート橋がかかっていました。名前のない橋だったと記憶しています。

そして、前橋文学館の開設と一緒に架けられた広い歩行者専用橋は「朔太郎橋」と名付けられました。

橋の袂には萩原朔太郎像があります。誰かさんが柳の枝を持たせてくれたみたいでした。目線は対岸の「しょうび幼稚園」を見ているのか、それとも紅茶屋の「リバティー」を睨んでいるのか、尋ねてみてください。

朔太郎さんの前を通り過ぎると、立川通の「諏訪橋」です。橋を渡って東へ行くと諏訪若御子神社、それで「諏訪橋」みたいです。高校生のころ、橋の近くに「田園」という名曲喫茶がありました。今は、橋の袂に萩原朔太郎の『月夜』の詩碑があります。

「諏訪橋」のたもとの杜には岡本太郎作の「太陽の鐘」が暮らしています。この街に来たのが2018年だったと思いますんで、前橋暮らしも7年過ぎたんです。いい顔してます、仲良しになりました。

「太陽の鐘」の下流に広い歩行者専用橋があります。いすやテーブルもセットされていて、ランチしている人の姿も見られます。「展望橋」、「てんぼうばし」って読んだら、「違います、てんぼうきょうと読んでください」と、市役所の人に教えられました。

そして、前橋中央駅前、赤城県道の橋が「久留間橋(くるまばし)」です。「久留間村」は榛名山麓の旧村、榛名町に合併され、現在は高崎市。その地名がなんでこの橋の名に使われているのか私は知りません。知っているのは昔は橋の袂に交番があって、「久留間橋交番」と呼ばれてました。お世話になったこともあります。

面白いのは、橋の高欄が荷車の車輪なんです。これだと、「久留間橋」でなくて「車橋」だいね。これで、広瀬川十七橋の風景を巡りました。お退屈さまでした。

夕食の主菜はアイリッシュシチューでした。息子たちに良く作ってやった料理、豚肉、ジャガイモ、タマネギ、ニンジンを水で煮込んで、塩とブールマニエで味付けしたシチュー、ブロッコリーを添えました。

サラダは、レタス、ミニトマト、キュウリ、ウド、ゆで卵にハニーマスタードソースです。芽キャベツはバター炒めにしました。主食はスコーンでした。

ユキ子さんには、こんなしてシチューとサラダを母さんちへ運んで一緒に食べてもらいました。日曜の朝から傷みのあった背中が、鈴木トレーナーのおかげで楽になっています。今日はどうしようかな…
ヒゲじいさんの連れ合いの三代目若柳吉駒でございます。
1937年(昭和12年)に祖母の初代吉駒が創設し、伯母の二代目吉駒から私に引き継がれた美登利会を主宰しております。今年の4月には第81回の舞踊公演を行うことができました、こんなに長く続けることができておりますのも、会を支えてくださる多くの皆様のおかげと、ただただ有り難く、感謝申し上げるばかりです。
また、きたる2月11日に東京の浅草公会堂で開催される東京新聞主催の『第100回記念 女流名家舞踊大会』に出演いたしまして、初代と二代目から伝えられました常磐津『芥大夫』を勤めます。
《最近の美登利会と吉駒リサイタルの舞台をご覧になりたい方は…》
第81回美登利会と第6回三代目吉駒リサイタルはこちらをご覧ください。
第80回美登利会と第5回三代目吉駒リサイタルはこちらをご覧ください。
第79回美登利会と第4回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧ください。
お稽古場は前橋市城東町、三代目吉駒をご紹介しますのでこちらをご覧ください。