髭爺の一言 No.53 | 仕事が「楽しくない」「夢中になれない」あなたに、「楽しくなれる」「夢中になれる」やり方を伝授

仕事が「楽しくない」「夢中になれない」あなたに、「楽しくなれる」「夢中になれる」やり方を伝授

仕事が「楽しくない」「夢中になれない」あなたに、「楽しくなれる」「夢中になれる」やり方を、「こっそりと」お伝えします!!

髭爺です。

 

日本の城が、大好きです。

だって、凛々しくて美しいですもん!!

 

今日は、「松江城」です。

 

 

今日も「髭爺の一言」へ

お越しいただき、

ありがとうございます。

 

<伝説のドアマン

   名田正敏さん>

 

名田さんは、

もともと山口県の漁師町で

魚の仲買見習いを

していました。

 

ところが、

魚が捕れなくなり、

29歳の時に

大阪に働きに出ました。

 

倉庫で働いたのを皮切りに、

34歳の時にホテルの配車係を

務めるようになりました。

 

名田さんは、単なる配車係に

甘んじることなく、

与えられた仕事の中で

頭角を現していったのです。

 

平成8年(1996年)1月、

最後の勤務地となった

ウェスティンホテル大阪を

引退する時には、

 

関西財界人を中心とする

約350名の人々に惜しまれて

お別れパーティを開いて

もらうほどの人に

なっていました。

 

では、その名田さんの

仕事ぶりとは、

どういうものであったか。

 

なんと名田さんは、

ホテルを利用される

主要なお客様

約4000名の名前を

見事に暗記されたのです。

 

仕事が休みの日、

ホテルを利用される

主要400社を訪問する

ことから始めました。

 

会社を訪問した名田さんは、

駐車場の出入り口に立って、

 

重役の名前と顔・車種・

 

 

運転手名を覚える

 

 

努力をされたのです。

 

その努力の甲斐あって、

ホテルに到着されたお客様の

名前を読んでお迎え出来る

ようになりました。

 

名前を呼ばれたお客様は、

当然感動されます。

 

感動されたお客様の輪が

広がり、名田さんに対する

信頼は益々高まって

いきました。

 

そうなると、ホテルとしても、

名田さんはなくてはならない

人になってきます。

 

名田さんの仕事ぶりは、

内外から高く評価される

ようになり、

一流ホテルからも次々と

声がかかるように

なりました。

 

名田さんは請われるまま、

それらのホテルで

主要ポストを経験し、

惜しまれながら優待

されました。

 

ここで私たちが

名田さんから学ぶべきは、

「どんな仕事にも活路がある」

ということです。

 

活路を開くには、

「与えられた仕事の中で、

自分に出来ることから

始める以外にない」

ということです。

 

駐車場の配車係になり、

名田さんは悩みます。

 

「周りはすごい学歴の人、

ホテルマンとしてキャリアの

ある人ばかり。

どんなに頑張っても

上には上がれない」

と。

 

そして名田さんは、

部長に辞表を出しに

行きました。

 

「名田君、他人と比べて

一喜一憂するんじゃなくて、

自分の土俵を作ることを

考えなさい、

そして

【このホテルは

名田正敏無しでは

なりたたない】

と言われるくらいになれ」と。

 

「【人に喜ばれることをする】

私の人生はただそれだけ

でした。

 

学歴があったのでもなく、

何か特殊な技能を

持っていたわけでもなく、

 

ただの配車係に

過ぎませんでした。

 

それが上司に助言されて、

他人のお役に立ちたいと

考えるようになり、

 

そのことに専念して

きました。

 

すると、

人に喜んで頂けるにつれ、

私も用いられるようになり、

 

とうとう一流ホテルの

副支配人にまで

なれたのです。

 

だから、

私は思います。

 

人の役に立てているかどうか、

それがすべてだ!」 と。

 

 

 

今日も読んでいただき、

ありがとうございます。

 

 

明日のテーマは、

「一歩を踏み出す大切さ」

です。