池永正明氏が2022年9月25日になくなる。合掌。 | 電車で酔いどれゴルフのブログ

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池永正明氏が2022年9月25日になくなる。

1946年8月18日生まれ、76才でした。

合掌。

 

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【昭和プロ野球】「黒い霧事件」に消えた西鉄ライオンズの天才投手「池永正明」

 

 

 

 

1998年の動画です。

驚き☆ももの木20世紀 「永久追放された天才投手 池永正明の28年」

 

 

 

1963年春の選抜甲子園で高校2年時に優勝。

1964年春の選抜甲子園で優勝した後のジャンボ尾崎とともに西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)に入団。

 

池永正明の高校時代

下関商業高校では、投手として高校2年春夏、高校3年春と3季連続で甲子園に出場した。

 

1963年

2年時の春は北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高校を10-0で退けて優勝。

2年時の夏は決勝の対明星高校戦で完投するが1-2で敗れ準優勝だった。

 

1964年

3年の春の選抜は緒戦(2回戦から出場)の博多工業に敗れる。(優勝はジャンボ尾崎の徳島海南高校)

3年の夏は県大会で亀井進を擁する早鞆高校(はやともこうとうがっこう)に敗れた。池永に勝った勢いで早鞆高校は初の甲子園出場で準優勝、亀井進投手は大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団した。

 

プロ野球実働5年で103勝。

1965年20勝して新人王

1965/1967/1968と3度の20勝越え。

1967には最多勝投手に。

1965-1699の5年間で99勝。

1970年も、春、4月のみで4勝。

オールスターは1965-1969と5年連続出場。

 

1965年47登板 20勝10敗   253.2回 防御率    2.27
1966年47登板 15勝14敗 267.2回   防御率    2.18
1967年54登板 23勝14敗 335.1回   防御率    2.31
1968年47登板 23勝13敗 305回  防御率    2.45
1969年34登板 18勝11敗 263.1回   防御率    2.57
1970年 9登板    4勝 3敗    52.1回 防御率    2.60
通算 238登板  103勝 65敗1477.1回 防御率    2.36

 

6年目のシーズンの1970年に黒い霧、八百長事件に巻き込まれ永久追放に。

 

このとき、先輩のたっての頼みで黒い霧関係者と会い、一時的に金を預かるがすぐに返している。八百長はしていなかった。しかし、永久追放に。

 

ジャンボ尾崎も署名活動などに協力して池永正明の永久追放解除運動をした。

 

2001年プロ野球OBのマスターズリーグに池永正明が投手として登板。

ジャンボ尾崎も池永正明がマスターズリーグ参加すると言うことで自身もマスターズリーグに参加した。

 

1970年に永久追放になった池永は2005年にやっと永久追放が解除された。

2007年に急逝した稲尾に代わり、プロ野球OBのマスターズリーグ・福岡ドンタクズの監督を、マスターズリーグが活動を停止する2009年まで務めた。

 

 

1970の一連の黒い霧事件で当時の西鉄ライオンズは主力選手が永久追放となり、弱小球団に転落。

 

【追悼:池永正明投手を偲ぶ】プロ野球八百長「西鉄ライオンズ熱狂と挫折の歴史】栄光の西鉄ライオンズを崩壊させた黒幕は誰だ?将来の300勝投手の夢を奪った黒い霧事件の真相とは!?

 

 

 

 

 

黒い霧事件で

それぞれの関係者には以下の処分が下された。

 

選手名 所属球団 守備 罪状 処分

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永易将之 西鉄 投手

敗退行為の実行

永久追放処分

 

池永正明 西鉄 投手

敗退行為の依頼を受け現金受理

永久追放処分

 

与田順欣 西鉄 投手

敗退行為の実行と勧誘

永久追放処分

 

益田昭雄 西鉄 投手

敗退行為の実行と勧誘

永久追放処分

 

小川健太郎 中日 投手

オートレース八百長に参加

永久追放処分

 

森安敏明 東映 投手

敗退行為の依頼を受け現金受理

永久追放処分

 

村上公康 西鉄 捕手

敗退行為の勧誘を受け、報告せず

1年間の野球活動禁止

 

船田和英 西鉄 内野手

敗退行為の勧誘を受け、報告せず

1年間の野球活動禁止

 

葛城隆雄 阪神 内野手

オートレース八百長に参加

3か月の期限付失格選手に指名

 

桑田武 ヤクルト 内野手

オートレース八百長に参加

3か月の期限付失格選手に指名

 

成田文男 ロッテ 投手

野球賭博疑惑のある暴力団と交流

1か月の謹慎処分

 

坂井勝二 大洋 投手

暴力団と交流

無期限出場停止と減給処分

 

江夏豊 阪神 投手

野球賭博疑惑のある暴力団と交流

戒告処分

 

三浦清弘 南海 投手

敗退行為の勧誘を受け、報告せず

戒告処分

 

田中調 東映 投手

敗退行為の勧誘を受け、報告せず

厳重戒告処分

 

基満男 西鉄 内野手

敗退行為の勧誘を受け、報告せず

厳重注意処分

 

高山勲 大洋 投手

オートレース八百長に参加、勧誘

なし(事実上の永久追放)

 

田中勉 中日 投手

オートレース八百長に参加、勧誘

なし(事実上の永久追放)

 

佐藤公博 南海 投手

オートレース八百長に参加、勧誘

なし(事実上の永久追放)

 

東映フライヤーズ(現・ニッポンハムファイターズ)にいて活躍した森安投手が黒い霧事件(八百長事件)にて西鉄ライオンズ永易投手の誘いで現金を受理して永久追放になり、その後、北海道の根室港で四人の船員と大乱闘をして割れたビール瓶で右手をえぐられた事件がありました。

 

1968年12月10日に発生した三億円事件のとき、三億円なんて大したことはない俺はこの右腕で四億円をかせいでみせると豪語していた森安投手がプロ野球を永久追放され婚約者からも破談され、転々と九州の西鉄球団から北海道の根室港まで流れ、夢が消えていきました。

 

森安投手は

1966年11勝

1967年15勝

1968年16勝

1969年11勝

1970年 5勝後に永久追放に

 

森安投手は200勝200セーブ、年間401奪三振で有名な江夏投手らもたたえる幻の史上最速投手だった。

黒い霧事件はセリーグにも飛び火し、巨人の藤田ピッチングコーチ(後の巨人監督)、柴田勲も暴力団との交際が疑われ謹慎処分となった。

 

黒い霧事件、八百長事件でプロ野球と暴力団の関係は国会でも問題となった。

 

 

参考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロ野球黒い霧事件の発生から終息まで!流れをわかりやすく解説[ゆっくり解説]