1971年週刊パーゴルフ創刊号には池永投手のゴルフ転向の記事が!! | 電車で酔いどれゴルフのブログ

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1971年週刊パーゴルフ創刊号には池永投手のゴルフ転向の記事が!!

(創刊の時は隔週でしたが)

 

 

【ジャンボ尾崎】プロ野球選手から日本最強ゴルファーになった理由!

 

 

 

1965年にジャンボ尾崎とともに西鉄ライオンズでプロ野球デビューした池永。

 

1964年は春の甲子園優勝投手のジャンボ尾崎、1963年春の甲子園優勝、1963年夏の甲子園準優勝の池永投手を獲得した西鉄ライオンズ。

 

ジャンボ尾崎は3年でプロ野球を退団、2軍では大活躍だったが1軍では目立った活躍はできなかった。しかし池永は大活躍だった。

 

しかし、突然の不幸が!!

 

西鉄で実働5年103勝をあげた池永投手は八百長事件、黒い霧事件で永久追放を受ける(実際は先輩のたっての依頼で接待は受けたが八百長はしていない)。

 

ジャンボ尾崎は永久追放になった池永の球界復帰署名運動を行ったり、池永のゴルフ界転向などにも相談にのったがかなわなかった。(永久追放は35年後に解除になったがもうプロ野球選手としては無理だった)

(2007年に急逝した稲尾に代わり、プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズの監督を、マスターズリーグが活動を停止する2009年まで務めた。)

 

しかし、ジャンボ尾崎プロと池永正明投手との間には熱い友情が続きました。

 

ジャンボ尾崎のデビュー当時のドキュメンタリー小説を書いた沢木耕太郎。

『儀式』と『巨象の復活』

 

『儀式』ではプロ野球からの転向と1971年秋の日米対抗を中心に。

 

「巨象の復活」では

1971年秋の日米対抗だけではなく、1970年関東プロデビューの前のプロ月例会で優勝、スポーツニッポンの記者がジャンボと命名した事、ゴルフ記者生命をかけて他の新聞社より派手にジャンボ尾崎の記事をとりあげたことなども書かれてました。

 

1972年にニュージーランドプロゴルフ選手権に優勝した後にテレビCMで優勝シーンで笑いながら手を上げ「すごーい奴か現れた、ジャンボ、ジャンボだよ」と歌が流れるシーンも。


儀式では森安投手の転落がありましたが、

この「巨象の復活」では

ジャンボ尾崎と同時期西鉄(現西武)に入団した1963年春の甲子園優勝/夏の甲子園準優勝投手池永の活躍、池永の顛末も書かれています。池永のゴルフ転向にもジャンボは力を尽くしているところで終わっています。 

 

「巨象の復活」が1972年月刊「エコノミスト」6月号から連載されたのが「若き実力者たち」においてでした。沢木耕太郎が24歳のとき。
「若き実力者たち」でのジャンボ尾崎の物語「巨象の復活」は大部分は調査情報1972年1月号の儀式からの書き直しでしたがページ数は増えています。

 

 

 

 

 

 

西鉄ライオンズ 池永正明 CD語り 小野ヤスシ (Offcial Music)

 

 

池永正明投手の高校時代

 

下関商業高校では、投手として高校2年春夏、高校3年春と3季連続で甲子園に出場した。

1963年

2年時の春は北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高校を10-0で退けて優勝。

2年時の夏は決勝の対明星高校戦で完投するが1-2で敗れ準優勝だった。

1964年

3年の春の選抜は緒戦(2回戦から出場)の博多工業に敗れる。(優勝はジャンボ尾崎の徳島海南高校)

3年の夏は県大会で亀井進を擁する早鞆高校に敗れた。

 

 

 

池永正明 下関商業

 

 

池永正明 西鉄ライオンズ

 

 

池永正明 2 西鉄ライオンズ

 

 

池永正明 肩の関節を広げた,粘りのある肩の回し Pitching Mechanics Slow Motion

 

池永正明 2/3

 

 

池永正明 3/3

 

 

 

 

 

 

 

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1970年に永久追放になった池永は2005年に永久追放が解除された。

 

2007年に急逝した稲尾に代わり、プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズの監督を、マスターズリーグが活動を停止する2009年まで務めた。