硫黄島の日章旗 | ひふみ塾 世回りブログ

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硫黄島の戦いは1945年2月16日 - 1945年3月26日)の大東亜戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍と米軍との間に生じた戦闘です。

日本軍は、20,933名の守備兵力のうち20,129名までが戦死した。

米軍は、戦死 6,821名、戦傷20,1865名。

この戦いは、大東亜戦争後期の戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶な戦いでした。

米国海兵隊記念日は、大戦後に制定されたものですが、その日は、硫黄島の戦いにおいて米軍が同島の擂鉢(すりばち)山に星条旗を立てた日でもあります。

そして戦没者を弔う米アーリントン国立墓地の近くに位置するアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものとなっています。

当時、全米で新聞紙上を飾った硫黄島の戦いを象徴する一枚の写真。

この戦いについては、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」という映画にも描かれましたのでご存知の方も多いのではないかと思います。

写真の星条旗は、いったん掲揚されたあと、あらためて大型の星条旗を掲げられたときのものです。

AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールが写したその写真は、同年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しています。

そして、実は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたアメリカ海兵隊は、この写真によって水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのです。

この旗について、映画に出てこなかった実話があります。

実は、米軍が擂鉢山に星条旗を掲げた翌日、摺鉢山守備隊の日本兵がこれを奪還して、日章旗を掲げていたのです。


米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼いた。

そして、かなり時間をかけて、次の星条旗を掲げた。

すると、何と、この二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取った。

そして今度は、やや赤茶けた色の日の丸の旗が掲げられた。

この旗も、三度、星条旗に変わり、その後、日章旗に戻ることはなかった。

このときの様子を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次さんが手記に記しています。

米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚した。

秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞いています。

大変、賑やかであったようです。

翌日、秋草通信兵は、摺鉢山の頂上に今度は日章旗がへんぽんと翻っているのを見た。

「守備隊は頑張ってるな」と、思わず感涙にむせんだと記しています。

守備隊長の栗林中将も、その旗を見た。他の将校たちもみんなで見た。

その日のうちに、立てられた日章旗は、再び星条旗に変わります。

その翌日、擂鉢山のてっぺんに、また日章旗がひるがえった。

その日の丸は、白字の部分は汚れ、日の丸の部分は赤黒かったそうです。

もはや、日の丸にする白い布もない中で、誰かの身に付けていた布に、血で赤丸を描いたものだったのでしょう。

擂鉢山で戦った日本兵たちが立てこもっていたのは地下壕です。

その地下は、気温が50度にも達し、水も食料もなかった。

蚤や虱は追っ払うのでなく、捕まえ、つぶして食べたと言います。

傷口が化膿して、そこにウジ虫がわく。

そのウジ虫も口に入れて食べた。

噛んで汁を吸い、ついで皮を噛み砕こうとしますが、これが意外と堅かったといいます。

また、実家で豚に炭の餌に混ぜていたことを思い出し、炭も口にした。

壕の中は息苦しく、ありとあらゆる不快な臭いに充ち満ちていたそうです。

天然の硫黄臭、排泄物や死臭はもとより、流れ出た血の腐臭など、耐え難いものだった。

死体からは燐が流出し、浮遊しながら、あちこちで燃えていたそうです。

著者は書いていませんが、これが“ひとだま”と呼ばれているものなのでしょう。

秋草通信兵も、大怪我をし、まどろみ、もうろうとなり、三途の川らしき光景に身を置くところまで見たと言います。

敗色濃厚となった頃、米軍から投降の呼びかけがあったそうです。

既に捕虜となっていた日本兵が「戦争は終わった。米軍は安全を保証する。心配ない。みんな安心して出てきてくれ。」と放送して回ったりもした。

しかし日本兵は誰も応じなかった。

日本兵は、なぜそうまでして戦ったのでしょうか。

硫黄島の戦いのあった前年(1944年)夏、米軍はサイパン島を攻略し、11月からB-29による日本本土への長距離爆撃を開始しました。

サイパンと日本本土のちょうど中間地点にある硫黄島は、日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点として機能していた。

日本軍は戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることすらできた。

日本軍の爆撃機飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。

12月には硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」の機銃掃射によって、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場で11 機のB-29を破壊し、8機に大きな損害を与えてもいます。

アメリカ統合作戦本部は、1 日本軍航空機の攻撃基地の撃滅2 日本軍の早期警報システムの破壊3 硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消4 損傷爆撃機の中間着陸場の確保5 長距離護衛戦闘機の基地の確保等を目的として、硫黄島の占領を決定します。

このことは、日本からすると、硫黄島を死守することは、上記の目的の裏返し・・・を達成することにもつながります。

しかし、敗色濃厚となり、すでに制空権、制海権を奪われた日本軍にとって、硫黄島への補給は困難を極めた。

硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白だった。

この戦いははじめから玉砕戦だったのです。

しかし硫黄島守備隊は、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていました。

なぜでしょう。

いちにちでも多く硫黄島を守り抜けば、それだけ日本本土にいる多くの人々が、疎開できる。

いちにちでも多くの日を稼げば、多くの日本人が、ひとつでも多くの防空壕を作ることができる。

すこしでも深く防空壕を掘ることができる。

そのための石杖となろう。

その決意と覚悟で、2万人の硫黄島守備隊は決死の戦いに臨んだのです。

パラオ・ペリリューの戦いで、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功しています。

栗林中将率いる硫黄島守備隊は、この戦術をさらに発展させ、地下陣地による持久抵抗によって、いちにちでも長く敵を硫黄島に踏みとどまらせ、上陸部隊をすり減らすことを狙いました。

日本が硫黄島を奪われたあとの日本本土へのB-29による空襲爆撃では、東京だけでも、死者83,793人、負傷者40,918人、被災者1,008,005人、被災家屋268,358戸(警察庁調べ)の被害を出しています。

東京一面を焼け野原にした東京大空襲による死者、負傷者の数が被災者数に対して意外とすくないのは、硫黄島守備隊が、およそ1か月半にわたる長く苦しい戦いを戦い抜いてくれたおかげなのです。

なぜなら、彼らのおかげで多くの人が疎開や、防空壕の政策・強化を行うことができた。

もし、硫黄島の戦いが短期に終わり、東京の人々の疎開がまだ十分に進まないなかで、東京大空襲が始まっていたら、どれだけ多くの民間人が亡くなったか。

おそらく東京だけでも100 万人以上の死者が出たのではないかといいます。

それを考えたら、生き残った日本人の子である私たちは、硫黄島で散って行かれた将兵の方々に、心から感謝しなければならないのではないかと思います。

秋草さんは語ります。「死んで行った戦友に、この60 年戦争が無かったんだから、その死は無意味ではない。そう言ってやりたい」筆者も戦争には反対です。

戦争を賛美するつもりもありません。

自分のからだにわいたウジ虫など、食べたくもない。

しかし、そこまでして我々の祖先が守り抜いてくれたこの日本という国を、わたしたちは大切にまもらなければならないのではないかと思います。

ひとりでも多くの日本人の命を守るために、自分のからだにわいたウジ虫まで食べて戦い、玉砕し、散っていった日本人がいた。敵に制圧された山のてっぺんに掲げられた星条旗を、日の丸につけかえた日本人がいた。

血で染めあげた日章旗を掲げた日本人がいた。

彼らは、必死に、命がけで、日本にいる多くの人々を守って下さった。

その英霊たちのおかげで、いま、われわれは、こうして生きています。

その命を、その日本を、いまを生きるわれわれ日本人は、もっと大切にしなければならないのではないか。

彼らの思いを、彼らの誇りを、彼らの血を、我々日本人は、決してわすれてはいけない。そう思うのです。


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