なんて、
傲慢な言い方なのだろう。
近代は、
「正しいやり方」を求め続けてきた時代ではないだろうか。
今まで、
自分が正しいと思っていたことが、
「正しくない」と分かっただけでも大きな成長なのに、
「もう先がない」といった発想の傲慢さ…
僕の「叱り方」は一貫している。
たった一つの「正しいやり方」を探して楽をしようとする姿勢、
それが通用しなかった際の投げ出す姿勢、
に対して激しい憤りを示す。
ただ、
現実を客観視して「事実の受け止め方」を新たに見出す姿勢、
だからこそ、
常に「最善手」を打とうとする姿勢が見られれば、
僕は評価することにしている。
(もちろん、
間違いを客観視する助け舟として、
その間違いはあり得ない、
という怒りのパフォーマンスはしてあげるけどね)
いやさ、
この基準を貫いて徹底するって、
結構大変な作業なのよ。
昔は、
限りなく自己チューだったから、
自分に負荷を与えることだけに楽しみを見出していて、
「他人は関係ない」っていう姿勢を貫いていたからね。
いちいち、
自分の価値観とか怒りとかを表現することもなかったよ。
(10代の頃は、ところ構わずぶっ放していたけど…)
まあ、
でもこうやって、
ひと手間もふた手間もかけて人に基準を教えていくと、
「そうか、正解は自分でつくっていくものなんだ!」
と気が付いてくれるような変化を味わえるから、
サイコーだよね。
最初から、
大きなことをしようとしなくていい。
物事の受け止め方に、
「正しい」があるのであって、
物事のやり方に、
「正しい」があるのではないから。
まずは、
今、自分にできる「解釈」の選択肢を増やすことから始めよう。