なぜか矮小化され隠蔽された能登地震の被害 : 東海アマのブログから
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1月1日16時10分に能登半島で発生した地震の報道を見ていて感じたことは、なぜか被害がひどく矮小化されて、最初は、死者数名~数十名の、それほど深刻ではない地震であるかのような印象を持たされた。

被災死者は200名を超え、さらに安否不明者が120名いるというのだから、最終的に死者数が300名を超える可能性が見えている。

1月1日~2日あたりの、緊迫感のない報道を視聴していた誰が、死者数が300名を超える巨大災害になると想像しただろう?

ほぼ1993年の奥尻島地震に匹敵し、それを超える震災被害が出ているのだが、30年も前の奥尻地震のときは、発生直後から凄惨な震災被害がリアルに報道され続けた。

だから、日本中が大騒ぎして、救援物資も殺到したのだが、今回の能登地震では、なぜか当初被害が軽いように報道されたため、救援体制がひどく遅れた。

また、台湾など他国救援隊が救援を申し出たのが、なぜか日本政府は「ニーズがない」としてそれを拒否した。

石川県の馳浩知事が「非常事態宣言」を出したのは、実に発生から5日後のことだった。

死者が126名に増え、さらに被害が想像以上に深刻であると認識されたからだ。


東京都の有名な「ハイパーレスキュー部隊」が出動したのも、なぜか地震から8日も経た1月8日だった。


1月2日の報道では、阪神大震災のように家屋が押し潰された映像は非常に少なかった。


津波警報が出た後も、輪島の映像では、ほとんど影響がないように見えた。


だが、実際には珠洲市で、高さ4.5mの津波が押し寄せていたのだ。


家の倒壊も当初の報道では想像もできないほと多く、行方不明者、死者の大半が家屋倒壊の下敷きになっているものだった。


緊迫感、喫緊の非常事態でないかのような不可解な初期報道の結果、奥尻地震や阪神大震災、東日本大震災に比べて、能登地震に窮迫した深刻さを感じた人は少なかったように思える。


だから、上の地震のような初期救援体制は作られなかった。


だが、そのとき、数千軒の家屋が倒壊し、数百名の人々が下敷きになり、津波に襲われていたのだ。


この人たちを救命するには、一秒でも早いがれき除去が必要だった。


もし、それが報道されていれば、たくさんんの人が力を併せて倒壊家屋の下敷きになった人々を救えたかもしれなかった。


だが、メディアは、能登に救援に向かう人たちに対し、「邪魔になるからやめろ」と報道し、抑圧したのだ。


メディアのどこが、人々が家屋の下敷きになっている緊迫した危機を報道しただろう? 


なぜ、メディアは深刻な被害の実態をきちんと報道しなかったのか? 


なぜ、一般市民の救援を邪魔したのか?


どこかから、震災被害を軽く見せろと圧力がかかっていたのか?


―転載終了―

私たちは、政府の発表や国内メディアからではなく、被災者からのSNSや海外メディアの報道によって被害状況が深刻であることを知りました。
すぐに救援活動を起こせばかなりの命が助かったと思われます。それをしなかった、それが出来なかった政府は無能と言わざるを得ません。

追記
被災者たちに何度も言われた。「外でいったい何が起こってるんですか?」「ここまで報道機関が来たのは初めてだよ」 (毎日新聞)


 能登半島を激しく揺さぶり、住民を混乱に突き落とした元日の大地震。山がちな半島では孤立集落の解消が遅れ、取り残された住民は苦しい生活に耐えてきた。中でも石川県輪島市の北岸にある西保(にしほ)地区は、徒歩でも行き来するのが極めて困難な孤立集落が点在。11日になってようやく空からの救出活動が本格化した。
本紙記者2人は10日、被災地に支援物資を主に徒歩で届けている男性に道案内を頼み、西保地区に入った。
 ◇土砂崩れ、獣道を分け入ると… 輪島市役所から西へ延びる県道などを車で4キロほど進み、光浦(ひかりうら)漁港を過ぎると土砂崩れで通行止め。ここで車を降り、土砂を乗り越えたり、男性が地元の人に借りた軽トラックに乗り換えたりして西を目指した。鵜入(うにゅう)の集落の辺りからは道路が海へ向かって崩れ落ちた箇所があるため山中へ分け入った。かつて使われていたという獣道。ぬかるんでいるうえ、ロープをつかまないと上り下りできない急傾斜もあった。 正午ごろにまず下山町に着いた。車庫で4人が身を寄せ合っている。漁師の谷内友三さん(63)は2日になって外部とつながる道路が寸断していることに気づいた。自宅は目立った被害はなかったが裏山が崩れるかもしれず、日中は車庫へ、冷え込みが厳しい夜は軽ワゴン車の中へ。ただガソリンは「あと数日で尽きるかも」といい、10分だけエンジンをかけて車内を暖め、以後は毛布にくるまって眠る。 近所の建設業、浦本晃さん(72)は「大丈夫、不安はない」と気丈だったが、周囲の道路の破壊ぶりは想像を絶し、故郷を捨てざるを得ない可能性も考えているようだった。「生まれてからずっとここに住んでる。親しい人たちと別れないといけないと思ったら……」と言葉を詰まらせた。 
◇朝ドラ「まれ」ロケ地も被災 さらに約1時間歩き、市役所から12キロほど離れた大沢(おおざわ)町に入った。NHK連続テレビ小説「まれ」(2015年)のロケ地となった漁村だ。船で救助できないのかと思ったが、防衛省統合幕僚監部によると漁港には小さな船しか入れず、沖合で大型船に移ってもらうのが難しいという。それ以前に、漁港の地盤は激しく隆起しており、船をつけられるようには見えなかった。 住民が避難生活を送る公民館に足を踏み入れると住民がわらわらと駆け寄ってきた。口々に「情報がないんです。新聞を読みたい」。公民館に勤務する中嶋恵美子さん(65)によると大沢町には従来、60世帯100人ほどが暮らす。元日は帰省者が多く150人以上いたとみられる。訪ねた時点では30人ほどがヘリで避難済みだった。 揺れの直後、住民たちは津波を恐れて「高台へ!」と大声をかけ合った。食料を積んだ自衛隊のヘリが時折、公民館の隣の広場に降りるようになったのは5日から。それまで中嶋さんたちは住民たちが持ち寄った材料でみんなのご飯を作り続けた。
 ◇9日までネットつながらず 断水、停電が続く大沢町では9日になってWi―Fiがつながるようになった。そこで初めて、インターネットのニュースで家屋倒壊や土砂崩れ、津波など広範囲での深刻な被害を知り、多くの人がショックを受けた。帰省中だった看護師の長手いつかさん(33)は「映像を見て、輪島中心部でこんなにひどい火災があったんだ、って……。つらいのは私たちだけじゃなかったんですね」。 取材中には神奈川県警のヘリが降りてきた。「迎えが来た?」「乗れるの?」と期待する老若男女20人ほどが集まってくる。この時はドローンで薬を運べるかどうかの調査のための来訪だった。帰省中に孤立を余儀なくされた人たちを中心に約40人がすぐに脱出したいと順番を待っていた。 
◇「復興せず廃村かも」募る不安 一方、長手富美子さん(82)は「復興しなくて廃村になるんじゃないかってみんなおびえてる。生まれてずっと住んでいる人ばかり。餓死してでも大沢に残りたいって言ってる人がたくさんいるよ。私も出たくない」と目を赤く腫らしながら言った。 受験生の姿もあった。田中朝陽さん(15)はスクールバスで中心部の市立輪島中に通学していた。父裕之さん(55)は「転校しなければならないのだろうか……」と案じる。 大沢町からの帰途、やはり孤立している赤崎町の旧西保小学校の避難所を訪ねた。この時点では約50人。帰省中の幼い子供や中高生たちもおり、中谷内稔さん(71)によると、早く脱出してもらうために4日前からヘリを要請しているがまだ来ないということだった。 県によると10日時点で西保地区で孤立していたのは814人。11日以降、被災地の外へ2次避難してもらう取り組みが急速に進んでいる。