最近、腑に落ちたこと。 | 日本の、世界の、食の常識を超えていく。

最近、腑に落ちたこと。

「我が体を全て敵に任せ、敵の好むところに来たるに従い勝つを真正の勝ちという。」

 

幕末の三舟と謳われた剣客、山岡鉄舟は、その剣法邪正の弁において、このように書いている。100戦して100勝するためにはこのような戦い方が求められると言う。これを「箱の中の品物を取り出す時に、その箱の蓋を開け、中身をあらため、その品物が何であるかを知るようなものだ。」とも表現している。鉄舟は禅の心得もあるため、まさに禅問答のようだが、「戦っていれば相手が勝ちを急ぐ場面が必ず現れる。そこに乗じて勝つのを真正の勝ちという」ということなのだが、ここにおいて最も印象的なのが、「我が体を全て敵に任せ」という部分である。

 

「人を切る」という、極めて能動的な行為、それが剣術であるはずだ。そこにおいて、受動性「受け身」のイメージは存在しない。しかし、鉄舟は、剣の勝負において、ある種の「受け身」が求められると言うのである。非常に逆説的であるが、極めて重要な指摘だと思う。鉄舟の換言を元にして表現すれば、「箱の中の品物を取り出す」(勝負に勝つ)ということは、箱を叩き壊す事ではない。確かに叩き壊せる箱であれば、叩き壊して中の品物を取り出すことができる(勝負に勝てる)かもしれない。しかし叩き壊せない箱であれば中の品物を取り出すことはできない(勝負に負けてしまう)。このような戦い方をしていては、100戦100勝はできない。箱の中の品物を取り出すには、箱を開けなくてはならない。その「開ける」という、ある種受動性のある行為が必用なのだ、と言っているのだ。これでもまだ禅問答の域を出ないだろうか?(笑) さらに言えば、剣を好き放題に、自分の思うままに打ち込んでいては、100戦100勝はできない。敵を切るためには、敵を観察し、見極め、適応すべきである。その意味で、能動の中にも受動性がなければならない。そう言っているのだと思う。鉄舟は、「この論理は人間として世間を生きていく上で全てに通じている」と言っているが全く同感である。

 

 

ビジネスの世界で、今まで様々な人間を見てきた。極めて優秀で結果を残す人間。さほど優秀でもないのに輝かしい実績を残す人間などなど。しかし私が最も興味深かったのは、極めて優秀であるにも関わらず、組織で結果を残せない人間だ。

 

ピーター・ドラッカーは、その著作『経営者の条件』で言う。上司は部下の強みを生かすことを考えなくてはならない。そしてそれと同様に、部下も上司の長所を生かすことを考えなくてはならない、と。優秀であるのに結果を残せない人間は、まさにここにおいて欠ける部分があるからこそ、目覚ましい結果を残すことができないのではないだろうか、と私は考えている。一人一人のビジネスパーソンは当然、何をしたいか?どうあるべきか?どうなりたいか?そんな個人の目標や欲がある。もちろんあって当然である。しかし、だからこそ、上司は部下の長所をよく調べ、どう生かすかを考えるべきであり、また、部下は上司を良く観察し、その長所が生かされるように貢献すべきなのである。この、他者を考えるという、ある種の受動的行為、「受け身」の行為を行なわない者、それが優秀であるのに組織で結果を残せない人間であるのではないか、と思う。

思い返してみると、ピーター・ドラッカーの多くの教えは、様々な立場における、ある種の「受け身」の大切さを教えてくれているのではないか、という気がしている。「なされるべきをなす」(The First question to ask is what needs to be done.)という教えなどはまさにそうだろう。

 

山岡鉄舟の「剣禅話」では、鉄舟がライバルに勝利するために修業を重ね、禅僧から授けられた公案に懊悩しつつも、最後の最後で100戦100勝の奥義にたどり着く様が語られている。このように、目標を徹底して追及する過程で、「受け身」というエッセンスにたどり着けるのかもしれないが、ある種の矛盾をはらむアプローチのため、気付けない人間は一生気付けないのかもしれない。何か最近、自分の中で腑に落ちたため、ここに書き留めておこうと思う。