部活動の体罰は本当に批判できるのか? | 和久井秀俊オフィシャルブログ「海外サッカー選手のホンネ」Powered by Ameba

部活動の体罰は本当に批判できるのか?

 

 

広がる体罰への厳しい目

 

 

いつからでしょうか?日本の学校内、特に部活動での「体罰」がすごい批難されているようです。僕は最近の日本のニュースはニュースピックスで見て、反応しています。できるだけ、ツイッターのように140字以内でまとめられるようにコメントするようにしていますが、「サッカー部の練習中に行われた体罰」については、いつもより長文になってしまった。

 

 

 

最初に伝えておかなければいけないことは、決して体罰は許されないし、僕自身も強く否定しています。と前置きしたうえで、どうしても不快感を感じるので綴っておきます。

 

 

僕らの受けていた日本教育

 

 

僕も体育の熱血先生と出会いました。そして、体罰を受けていました。

でも僕が「あれは体罰だったんだ」と認識したのは、社会に出てからでした。

 

 

 

今回問題になったこのコーチは、30代で僕と変わらない年齢です。おそらく、彼も体罰を受けて育ってきたのだと想像します。体罰がいけないことだと、むしろ愛情だと認識して育ってきたのかもしれません。もちろん、それを理由に擁護するつもりもありません。

 

 

 

でもそうした同じ時代を生きてきた人がすごい批難している状況に、僕は凄く不快感を感じてしまいます。少なからず、その時代は平手されることや罰走することが、精神を強くし、愛情であることを認めてきた事実がその時代にはあったんです。僕もそう感じて大きくなってしまいました。

 

 

 

 

 

「暴力」という選択肢のある教育

 

 

無意識の教育を教師から受けて、そうした教師の「愛」に憧れて生徒が教員になった人もいるんです。その「無意識の選択肢」を使ってしまった人も少なくないと思います。

 

 

 

ここからが僕が本当に伝えたいことです。こうした状況を非難することで体罰を混雑させることができるならば、今のコーチを集中的に批難することは良い状態だと思います。でも、もしあなたが教師の立場で絶対に手をあげないという、生徒と本気で向き合って、その絶対の状況を毎日常にどんな状態でも作り出せるでしょうか?

もう少し言うと、「自身の子供に手をあげていない!」と言えますか?僕も二人の子の教育に手が出そうになる精神状態に何度もなりました。

 

 

 

根本的に、「日本の部活動問題を考える 1」「2」「3」「4」でも綴りましたが、体育や部活動システム、サッカーやスポーツ協会などの位置付けも含めて、教育やスポーツの在り方を見直さないといけないと思います。

 

 

 

体罰を受けて育った環境で、体罰を選択肢としない時代に生きている教員を非難する事だけでなく、「どのようにこれを体罰をせずに教育をしていくのか」という部分で根本的な議論をもっともっと深くすべきだと思います。

 

 

 

教育で世界から評価を受ける国や自治体では、「暴力」という選択肢が教育から見られません。これは「百聞は一見に如かず」で教育現場を見てもらうしかないのですが、生徒同士の問題に他の生徒が入ってきてサークル対話を始めたりするんです。細かく書くとさらに長文になりますが、生徒同士で課題を解決する手段を知っていて、暴力で解決するという選択肢がないのです。

 

 

 

もちろんどんな教育システムにも欠点もあり、世界には暴力をする選択肢にする人もいる事実と、その社会をどう受け入れ、どう関わるかを学ぶのは簡単ではなくなります。

こうしたシステムだけを取り入れても日本文化の中でうまく循環しません。またこの動画は生徒が教員を監視して、投稿しているという状態にあります。こうした議論も含めて、日々生徒に真剣に向き合っている教員のためにも、そして子供や親、教育に関わるすべての人のためにもっと議論が深まり、日本独自の教育の発展を目指すべきだと思います。

 

 

 

皆さんは、どう思いますか?