憲法の定義を明確にすること。
そもそも憲法制定60年を経過し、改憲論者の言い草は、連合軍GHQによる押し付け憲法だの、独立国としての自主憲法でなければ為らないなどと、尤もらしい屁理屈を振りかざしてきた。
今でこそ「民主主義」が当たり前のように語られているが、戦前の封建的社会制度から考えてみれば、現憲法の「平和主義」も「国際信義」も「主権在民」も「男女平等」も「普通選挙権」も「思想・信教の自由」等々も、ことごとく負けるべくして「勝ち得た」敗戦からの教訓である。
特筆すべきは、日本の民族と国体の保全を優先的に腐心して、「象徴天皇の存続」と「9条の戦争の放棄」との明文化は、GHQの思惑を別にしても偉大な憲法となったと言える。 従って天皇は、「日本民族統合の象徴」であり、君主で在っても元首ではない。
また9条は、侵略も「名目的自衛戦争(あり得ないが)」も、国権たる戦争の放棄を無実化してはならない。むろん「日米安保」の対外的な抑止力の上で、戦後のめざましい生活・経済の復興に大きく作用してきたことを否定はしないが、もとより日本国民の不断の勤勉な努力があって今日の繁栄があるのである。
かつて安倍総理の言った「戦後レジームからの脱却」を示唆するならば、それこそ大戦の総括を迅速に検証して、いつまでも蒸し返される「強制労働や慰安婦の実態」などに、正面から取り組む姿勢こそが、内外の信頼と理解が得られる唯一の途といえるだろう。
その具体的な行動が「外交」なのであって、大戦の「謝罪と責任」の政治認識と、「開発や援助」の経済や文化的交流との総体感覚がなければならない。
さて国家の最高法規である憲法とは何か。
言うまでもなく、その国の存在事由を内外に示す基盤であり根拠ではあるが、法が先にあって人間社会が後から治まっているのではなく、そこに人々の営みがあった上で、様々な秩序や規律が生まれ、なお且つ権力の抗争と争奪が繰り返された過去の歴史からの今日が在る。
それらの経緯や成り立ちと、この国の将来に向けた展望や理念を示しているのが、憲法の前文と捉えられているが、ではこの前文自体の「法的根拠」を何処に求めているのか。 ここにこそ現憲法の脆弱さや危うさがあるのであって、改憲の必要性があるとすれば、ただこの一点にのみ集約され、条文化しさえすれば事は足りよう。
だから現憲法は、たとえ自己矛盾を抱えながらも「日本のバイブル」であってよく、変わるべきは憲法精神を準拠とした「法の運用」に尽きるといえよう。