日本では、いつしか「正義」が失われてしまったからなのですね。

その顕著さは、社会生活の不安と政治不信に表れています。そして何よりメディア言論界における定見の無さが、誤った世論を形成させているのです。

 先ず社会生活の不安は、働くことなき家族関係の崩壊に因った破綻と近隣社会との隔絶感とに由来し、更には膨大な情報過多との狭間にあって、個人の感性がコントロール出来ずに、犯罪と云う形での暴走でしか表現されないのです。


 家族の崩壊とは、「働くこと」を、家族が相互に知恵を出し、努力を怠っている結果であり、夫々の持ち分や仕事をわきまえない構図からうかがえます。

とくに主人のリストラ等の無就業状態(無職)は最悪であり、パート勤めの主婦の家事の手抜きと子育ての怠慢や、子供の学業が本分とする自覚教育の欠如とが相乗して、家族の破綻を招く要素となってしまいました。


 また近隣社会との隔絶感とは、あまりに個人情報保護の名で肝心の自己証明を失っていることと、玄間の引き戸がドアに変わっての構造的なコミュニケーション不足が顕著であり、隣は誰人ぞ住む症候群なので孤独死は増える一方でしょうし、まして膨大な情報過多は、ものごとの善し悪しの判断を危ういものにしてるだけなのです。

要は、「子供は親の背中を見て育ち、親は国の未来を託して働く」ことで、健全な社会正義が培われるのです。

 次いで昨今の政治不信は、首相たるものの「朝令暮改」は云うに及ばず、それを指弾すべき野党にも「確かな反証(反論ではありません)」を見てとれません。

例えば、普天間の移設問題では首相の言質だけの論争に終始し、閣内の迷走ぶりと野党としての対案はおろか、日本の国体としての論議もまるでない。

また降って湧いたような「抑止力」での首相発言も呆れるが、またぞろ識者と称する普天間存知論の復活に、福島党首の反論のすべもない。

答えは簡単なのです。日本の抑止力とは「国は国民を守り、国民は国を守るそして「防衛隊(自衛隊は誤り)は国と国民を守る」との国是で足りるのです。

 そしてメディア言論界の定見の無さは、それこそ記者会見に見られるような「朝令暮改」に振り回され、報道それ自体も朝令暮改のそしりは避けられまい。

例えるなら消費税論議ひとつでも、パーセンテージの値上げ論に終始し、市民国民の負担している5%全てが国庫に入らず、非課税や簡易課税を含め、さらに滞納・未納・脱税の実態を考えれば、如何に消費税に名を借りた売上税であるとの提言に耳を傾けないのも、大きな不見識ぶりである。

 大事なのが、市民国民の負担している5%全てが国庫に入るような、そもそも論を根本から制度設計される議論の展開なくして報道することは、誤った世論を形成させている根拠となります。

それらの何れも欠落している世相社会にあっては、嘘と欺瞞で満ち溢れた主張ばかりがまかり通り、その何処にも正義を感ずることが出来ません。

そんな閉塞感の中から脱却させるのは、今一度この「正義」を言論界が聞き入れたならば、一挙に事態が豹変し暴動を起さずして「蜂起」の芽が生まれます。

 桜桜が咲いたら「お花見」なのらニコニコ・・・


観光立国を謳うにしては、陳腐な発想はてなマーク

思いつきにしても、大山鳴動してネズミ一匹・・・・・・テカ


目論みとしては、連休に集中した観光地の混雑とプレミヤ的価格の高騰、そして何より交通渋滞の解消と5週に渡る観光事業の活性化等々による、雇用の安定的経済効果を期待してのこととある。


しかし残念なお知らせですが、全国を5ブロックの地域に分けた意味も意義も根拠が無いのだ!

机上の人口比で振り分けたのだろうが、何の行動力学も見えてこない。


 アータ考えてもみなよ。

東京を首都圏とする南関東ブロックでは、何週目になろうとも何百万の人口移動がはじまるわけで、結果はいつものGWと同じ現象が起きるのは必定なのだ。

むろんメガポリスを抱える大阪圏や名古屋圏にしても、規模こそ違えおなじこと。

むしろ、首都圏を5分割(所詮無理)しない限り、絵に描いたモチになるのがオチであるわさ。


 予算の掛からない法案との自画自賛。ふざけるな!

またぞろの識者や研究家を招いての議論や、社会実験そのものに、莫大な費用を掛けるのは、無駄遣いの何ものでもないのら。

たぶん分割連休を強行するとなると、旅行クーポン券(1世帯五万円程度)のバラマキが議論になるのも避けられまいっテカ?


 散った桜や、紅葉の落ちた枯れ木を、だれが見に行くのですか!?

観光立国にするなら、日本の全土をテーマパークにするだけで、万事解決するのら目

 普天間基地の移転問題は、既に海兵隊半数の米領グァム島移転が決まっているわけで~

残る8000人の海兵隊のうち、あと2000人はグァム島に追加編入させて、1万人規模の部隊に縮少させれば万事解決するのですねひらめき電球

飛行場の施設が必要ならば、折角使われていないテニアンがあるのだから、再利用すれば!?・・・


或いは、現役を引退している米海軍の航空母艦を配置して、適宜に巡回させていれば、有事の際に危機対処の先鋒となった機能も発揮できるものです。


要は、東西冷戦が崩壊した現在に、日米安保の根本的な意義を見直して、すべての基地問題を考える時期になったのですね。

亀井発言は、無計画的に無計画・・・?

全企業の7割かたが中小企業です。全部が資金繰りに窮余してるものでもないから、実態調査をしないで、三年もの長期な返済凍結は無謀でしょう。

かと云って、公的資金の導入で救済された金融機関だって、言えた義理ではありませんよ。

 不況や景気対策の根本は、「企業倒産を無くすこと」が前提なのです。

簡単ですよ!

すべての企業や商店に至るものまで、産業別・業種別・地域別にグループ化し、相互に債務保証を担保できるように、金融資本が、個別の経営の助成力学を用いれば、倒産することは無くなります。

不況の原因は、好景気の時の利益分を税金でさらわれたこと。

健全なグループ談合まで、「談合が諸悪の根源」とばかりのバッシングを受けたこと。

週休2日制を、はき違えて(勤労者のためなのに)事業場まで、休日にしてしまったこと。(特に役場や銀行そして学校も)

一連の規制緩和(節操なく)をして、派遣業種の拡大が、社会秩序を破壊したこと。等々なのが最大の要因なのですね。

 もうひとつ大切なのは、このグループ化(三本の矢)によって、体力も活力も回復させることになり、全て働ける人は「皆就労」の機会が生まれるのです。

 今年5月に始まった裁判員制度だが、それまでの模擬裁判を通じて、さまざまな疑問が随所に見られます。まず刑法及び刑事訴訟法は、もっぱら犯罪者の観点で立法化されており、司法の手続きの上でも、肝心の被害者側の論理が著しく疎かになっている点にあります。

 

 とくに凶悪犯の動機と凶器及び残虐性などに、量刑の判断基準を置いてますが、それ以前に検察の裁量だけで「罪状」を提起することこそ、問題なのです。いずれの場合も、起訴されるまで被害者にはまったく知らされず、まるでツンボ桟敷でしかありません。

 市民感覚を願うとすれば、少なくとも事件の経緯説明や罪刑の選択にも、被害者の意見や希望を斟酌する機会を取り入れない限り、「被害者の人権」は無視されたままとなってしまいます。

 

 ことに現状の量刑の視点が、軽いものから順次重い刑とする考え方であり、本来的な犯罪の意味からすれば、むしろ人権を侵された被害者側に立った論理である筈なのです。  例えば殺人ならば、先ず死刑を選択したうえで、各種の情状(動機・残虐性・精神障害・被害者感情・少年法・社会性・人数)等々を深甚し、それらを減刑の基準値にすべきだとすれば、最も公平・公正な裁判となり得るでしょう。

 

 また公訴時効に関しては、その起算点に対する考え方が問題であって、簡単な話で言えば、犯行期日よりも、事件の発覚日及び犯人または容疑者が確定された日を起算点とすれば、冤罪の解消と逃げ得を許すことは無くなりますし、何よりも犯罪者と被害者との法的な整合性が保てられるのです。

第二章第九条を試みてみる

 なぜ第2章でありながら条文は一つしかないのか?

しかも表題が「戦争の放棄」であり、第9条も「戦争の放棄」と「戦力及び交戦権の否認」との2項目で治めている。 ここが比類なき日本国憲法の特異性と尊大性の表れと云えなくもない。

 

 本来ならば、第二章 日本国の要件

第九条 日本国の領土及び領海

(この条項のなかで、日本列島と琉球諸島はもとより、北方四島や竹島・尖閣諸島・南鳥島・沖の鳥島までを明示していれば、荒唐無稽な歴史認識の葛藤が防げたかも知れない?)


第十条 日本の国旗及び国歌

(ここで、日本の旗印としての日の丸と君が代を制定すれば、無用な心配もなかった?)


第十一条 戦争の放棄

1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力に  よる威嚇及び武力の行使は、永久にこれを放棄する。

2項 国際紛争を解決する手段としての、国の交戦権は、これを認めない。

3項 前二項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。


第十二条 非核3原則

(核兵器は、持たず、造らず、持ち込ませず...条文略)


第十三条 日本の安全保障(案例)

1項 国の防衛:他国からの侵略や攻撃に晒されようとした事態に際し、日本国民は断固として之を阻止

     するために、国際信義に基づく「抵抗権」を発動しなければならない。           

2項 国民の安全:主権者である国民の安全を図るためには、法律も行政もあらゆる機能を駆使させるこ 

     とが、国の責務である。

3項 国家の安全:前二項の目的を達成させるために、特別に組織及び編成された「連邦警備隊」を設置して、国の防衛と国民の安全を図らなければならない。

4項 安全装備:国の安全と安心を保障させるために、外国と国際社会との不断の外交努力の積み重ねによって交戦を回避し、有事における重火器の使用は、自己防衛と専守防衛に資する装備とする。

 以上のような条文であれば(記者の論理も含めて)、憲法条項としての体裁やバランスも保たれたかも知れないが、第9条の戦争放棄の1点に集約されたのは、当時の敗戦国日本が、戦勝国に対する独立国性と、何といっても日本民族の生き残りを賭けた苦肉の表意だったとも理解できる。


ともあれ、このことも歴史の経緯であり、不完全な憲法でさえ大きな文化遺産と捉えれば、いたずらに不毛な議論と無駄な国費を拠出する必要は無い。法は運用次第であり、そのための方便として、憲法前文の「条文化」があれば「憲法は機能」するのである。


(やたら北の核の脅威を煽りたてても、絶対に核など使用できる訳がない。)  

憲法は日本のバイブル!その5

 大戦までは昭和天皇が日本の元首であった。
それは「大日本帝国憲法第一章第一条の、大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明記され、名実共に政治的実権を掌中してきたことでも理解できよう。
 然るに大戦後、連合国総司令部(GHQ)による体制の解体の中で、日本の国体を表す憲法の起草を行い、天皇を「日本国民統合の象徴」と位置づけ、その地位を「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定義したのである。ここで天皇は「元首」ではなくなったが、依然「君主」であり続けることを失うことはなかった。
 
 現憲法では、三権(立法・行政・司法)分立を保持しながら議員内閣制を採り、地位の上では三権の長が同列と云えども、内閣総理大臣が他の両院議長と最高裁長官とは実権的な意味で長じており、「日本の元首」により近いとは云える。
 しかし時の「多数権力」によって選出された総理が、主権者国民よりも党利党略に腐心し、或いは一時のパフォーマンス等々で日本が座礁したとき、法的な責任の問われない地位にあることは、とても元首とは言い難い。

 特に憲法改正の大儀として、実質的な武力を保持する自衛隊の存在と、現代社会の著しく多様化した構造の変化に法律が付いていけず、自主独立した憲法そのものを考え直す時期に来ていると扇動し始めたのだが、最も肝心な民主主義の根幹を成す三権分立の脆弱さを言及してはいない。

 そこで展開するのが新たな「元首論」である。
先の天皇制とは、日本の歴史的或いは文化的・民族的な所産であり、憲法上も象徴として君臨すれども統治できないので、元首ではないと述べた。
 行政府の長たる総理大臣も、外国間の首脳と云う点で「日本の顔」と言えなくも無いが、会社でいえば雇われ社長程度の実権しかなく、立法はともかく、当然司法権への関与は出来ない。

 主権在民と明記されながら、その実、ないがしろにされている国民の生存権を約束する為に、「三権の齟齬」を掌る存在者として「大統領」を現出させることは、主権者の帰結点ともなる。
 これが「元首」であり、「日本の顔」である。一部には、天皇制と大統領制の並列は有り得ないとの意見もあるが、果たしてそうであろうか。

 象徴的な民族の証しである「天皇」と、大権を駆使できる統治者「大統領」の存在は、政治原理において全くその趣を異にするのは明らかであり、国際社会への地歩も、より強固のものとなって、その影響力は、「安保理の常任理事国入り」への画策などの比ではあるまい。
 
 小泉内閣が行ったイラク派遣は、大儀としての人道支援に基づく国際貢献であろうとも、依然憲法に抵触する違憲行為であり、超法規措置を伴うとすれば、これは最早「大統領」の大権とする命令権によってのみ発動できるものである。
改憲論議にも、そうした大枠の視点が無ければ、大改革を成し遂げられるものではない。

 核武装の議論だって? ヒマ人の考えそうな設問だろうな。

 

三大ペテン師に踊らされて、「大山鳴動してネズミ一匹」ってな具合だね。

1、イラク・フセインは、核や化学兵器の保有をほのめかしただけ。

2、小泉純一郎は、郵政民営化を本丸と称し、痛みを国民に押し付けただけ。

3、金正日は、使えもしない核と、乗らない人工衛星を誇示してるだけ。

いずれ劣らずのパフォーマンス上手だよね~

外交ってのは、コーデネート・・・・・

 そもそも年金制度の破綻が、少子高齢化の論点にすり替え、元々国家事業としての「ネズミ講」であったにも拘らず、バブル期までの受給者への厚遇的な対処も答えず、同じ条件下で積み立てて来たこれからの受給者が、大幅に減額されることの整合性を説明できない以上、厳正な責任の所在を追及すべきである。


これはまさしく、親ネズミの食い逃げ商法に匹敵し、孫々ネズミほどペテンの犠牲を負う「ネズミ講」と言わずに何と説明できるのか。 こんなカラクリでさえ政治家も、いわゆるメディア有識者までも指摘してない。

 次いで年金制度を一元化するといっても、肝心な労働 .福祉の根幹を設計できもせず、勝手な改革案ばかり提示するのは不毛な議論と言える。 要は各年金制度の実体を解明するのが優先である。


それには、これまでの年次ごとの「積み立て収入と徴収者数」と「支給金額と受給者数」の数値、それに「徴収すべき人数と未納者数」や「運用資金と運営経費の項目別数値」などの検証を、だれが何処が実施するのか。

また一元化の障害は、厚生年金と国民年金が実質的な個人負担であるのに、膝元公務員の「共済年金」が名目、個人負担と言いながらその拠出はすべて税金である。 だから共済年金は統合に消極的と言うより、本音で反対するのは目に見えてくる。 だからこそ共済年金や公務員恩給制度および退職金制度の、それぞれの収支実体の数値の公表が開示されなければならない。


 そんな構造の歪みがありながら、現実の制度解明も求めず果たそうとしない政界 .言論界の責任を含め、社保庁の解体に備えた第三機関の設置そのものの適否を、それこそ見識を持って論議しなければならない。

 憲法の定義は前文にある


 第9条の議論の前に、この前文と条文との法的な規範の差異を明確にしなければ、憲法の示す崇高な理念を理解することが出来ない。


何故バイブルなのかの答えも、この前文に潜んでいるので独自に条文化してみると、全4ヶ条に区分された大綱が浮かび上がってくる。




日本国憲法


前1条「宣言」 日本国民は、(中略)わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。



 前2条「普遍の原理」 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、(中略)これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。



 前3条「平和の決意」 日本国民は、恒久の平和を念願し、(中略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。          われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永久に除去しようと努めている国際社会において、(中略)全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。



 前4条「崇高な目的」 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、(中略)自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。          日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。  





 この条文化こそが、余後の憲法条文の根拠と定義を伴うことになる。


つまり「宣言」では、まさしく大戦までの悲惨な歴史から学びとった教訓を忘れず、「普遍の原理」としての主権を国民に帰趨させ、「平和の決意」の表明が戦争放棄の絶対条件をしめして、総じた「崇高な目的」で国際協調の中から日本の将来を誓ったのである。



すなわち、この前条文はそれこそ「大憲法」であるが由えに「バイブル」そのものである。したがって、さまざまな改憲も創憲?も修正も、この「大憲法」を蔑ろに議論はできない。