鹿肉、届く。
脚一本。
大概、気持ち悪いと言われる。
では、スーパーの肉も誰かがこれと同じような工程をこなして店頭に並んでいる。
それは、誰かがやれば良い?
私は関係ない?
例えば縄文人に、そんな社会的住み分けあっただろうか。
ないはずだ、もちろん生きるため。
そうしなければ死ぬ、そう言う現実があったはず。
死生観への祈りは、そうして生まれたはず。
このシカも、数日前まで野山を駆けていた。
ノコギリで脚を切る。
私たちは、生きるために他の生き物を殺す。
例えば、クマを殺すなと昨年騒いだ人がいる。
動物虐待だと。
植物しか食べないと。
では、聞きたい。
植物に、意思がないとでも?
あるんですけど、植物にも。
もう一つ聞きたい。
縄文時代の遺跡から、動物の骨が。
魚の骨も。
胡桃の殻も。
それらを食べて、生き残った人の遺伝子がこの世にある。
誰か一人でも死んでいたら、あなたの命はない。
もちろん、私も。
つまり、現代日本に住んでいる私たちは「生き残り」なのであり。
私たちは、先人が得た知識や知恵の力を借りて生きているに過ぎない。
それを、否定できますか?
フグを食べても死なない、そこまでに何人死んだのだろう。
野蛮ですか?
では、魚を一匹買い、家で捌くのも?
魚屋は全員、野蛮人なのでしょうか。
いえ、違います。
では、食べ物の好き嫌いにより、廃棄される食べ物を生み出す人を「野蛮」としたなら。
その論だって、立ちますよ。
害獣と、いわれのない因縁をつけられて。
しっぽを切って、スプレーでナンバリングして。
それで補助金を得る。
捨てられる、シカも沢山いる。
でも、私の家に来た鹿肉は我が家の。
そして今月行われる、ジビエ出張料理にて。
多くの人の、腹を満たす。
血管の流れを読み、血抜きをする。
私たちが生きる意味は何か。
改めて、命をいただく事の意味を。
血抜きの間、バッケを晒す。
意思があるから、彼らも成長する。
オリーブオイル準備。
これも命。
誰かが育て、誰かが圧搾し、誰かが運んだ物を、私たちはお金で買っているだけ。
と言うことは、生産や加工に携わる人がいなければ、お金があっても買えない。
熱湯30秒。
炒めて、和えて。
鹿肉の味を確かめつつ、焼きうどんを作る。
かつてこれらは、全て生命体でした。
命を、いただきます。
焼肉用。
ケーシング、ニンニク、燻製塩でパック。
アミノ酸を上げてから、低温調理にて。
骨、スネ肉、トリミングで出た筋膜。
これらは、煮込みに。
すべて、命をいただきます。
脊椎動物の膝関節なら、ヒトと似ているはず。
靭帯も、半月板も確認。
すべて、ペティナイフだけで。
思想は結構。
ですが、私たちは毎日動植物の命をいただき生きています。
私は心の中で「命を」と唱え。
口に出して「いただきます」と言います。
誰かの「美味しい」は、誰かの手から生まれること。
血抜きの技術で、肉質が良くなること。
技術?でしょうか。
単純に、生きるためでしょう。
美味しい、の一言のためです。