このブログは、もともと
「ひきこもりブログ」だったのですが、
近年はすっかり病気ブログになってしまいました。
今日は、原点に戻って
「ひきこもり」について書きたいと思います。
きっかけは、
最近、頭木弘樹さん編訳の
「絶望名人カフカの人生論」という
本を図書館で借りて読んだことです。
けっこう売れた本なので
知ってる方も多いのでは?
この本は基本的に
カフカのネガティブで勇気のでる言葉を抜粋して
それについて頭木さんが解説していく、というもの。
以下、気になったカフカの言葉を紹介していきます。
「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまづくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」
ひきこもりの心理を一言で表しています。
ポイントは「倒れたまま」を継続することは
「うまくできる」、ということです。
これは一種の「才能」と呼んでもよいと思いたいほど、
倒れ「続ける」ことはうまくできます。
僕はかれこれ22年ぐらい
「倒れ続けて」いますが、
ぜんぜん飽きることはない。
ちなみにこの言葉は
カフカが結婚したい恋人に送った手紙に書いた言葉です。
普通、結婚したい人に送る手紙なら
自分を「普通」っぽい人だと思ってもらえるように
「盛り」たくなりますよね。
僕もごくたまにバイトに応募するときの履歴書には
6ヶ月しかやっていない仕事を
6年やったと、詐称して
職歴に書いたことが結構ありました。
ひきこもりの人って
知らない人や、社会、世間と交わる時は
自分がいかに「普通に近い」かを演出したがるものです。
世間一般の「普通」に近いほうが
「正しい」と思っているわけではありませんが、
現代の社会規範に照らして「普通」でないと
受け入れてもらえないと思っている傾向があります。
実際に、ごくまれに面接にいくと
履歴書の空白期間について
「この時期は何をしていたんですか?」
と、たいていの場合、聞かれます。
そんなことを聞かれても
「何もしてません」としか答えようがないので
仕方なく何もしていない時期を極力短くするという
涙ぐましい経歴詐称にいそしむわけです。
初対面の人や、久しぶりに会った同級生などと
話すときも同様です。
22年間引きこもっていたという
あまり普通でない過去(そして現状)は
なるべく伏せておきたいという
心理が働きます。
そんな時は病気を持ち出すことが便利です。
「○○という病気だったから」何もできなかった、と
説明することにしています。
今はメンタルを病むことも市民権を得てきているので。
実際に僕は精神薬漬けになるくらいに
精神科に通っているので、
この切り口でしのいでいます。
ところが、カフカは結婚したい人にたいしても
「なにもできない」ことを素直に(?)吐露しています。
どういう理由なのかはわかりません。
ネガティブなことを言ったほうが
自分に興味をいだいてもらえると思ったのか。
ちなみに、上の言葉に戻って、
僕の場合は、
「将来にむかってつまづくこと」もできません。
それは次のカフカの言葉があるからです。
「ぼくはひとりで部屋にいなければならない。
床の上に寝ていればベッドから落ちることがないように、
ひとりでいれば何事も起こらない。」
これもカフカと同意見です。
世の中の多くの人は
「それでは、確かに悪いことを経験しなくて済むけど、
楽しいことや嬉しいことも経験できないでしょ」
と思うようです。
僕だってリスクなく楽しいことにありつけるなら
楽しいことを経験したい。
けれど、悪いことやつらいことを
体験しないことのほうが
楽しい体験をすることよりも重要なのです。
この本を読んでいて膝を打つ言葉は
たくさんあったのですが、
いろいろ紹介してると
ブログ記事が長くなってしまうので
最後にもう一つだけ紹介して
終わりにしたいと思います。
親との関係についての言葉。
カフカは36歳のときに
父親に向けて恨みつらみだけを
書きつづった75ページにも及ぶ手紙を書いています。
「まるで二人の子供がふざけあっているようです。
一人が友達の手をきつく握りながら、
「さあ行けよ。なぜ行かないんだ?」と
からかっているのに似ています。
もちろん、ぼくとお父さんの場合には、
あなたの「行けよ」という命令は、
真剣なものですし、本心です。
でも、あなたは以前から、ご自分ではそれと知らずに、
ぼくを引き留め、押さえつてこられたのです。
父親という存在の重みによって。」
子供を支配して自立させないことに
親が無自覚なことがあります。
「手をきつく握り」というのは
父親が自分の価値観に沿うような自立ならかまわないが
それ以外は認めない、という意味にとりました。
僕の父親も、公務員試験や資格試験、
ハローワークの仕事など、
数々の仕事に関して
「こういうのをやってみたらどうか」
と僕に提案してきたことがありますが、
すべてが自分(父親自身)が
「これなら納得できる」と思えるものだけでした。
僕の意向は完全に無視され、
「自分の意に沿った仕事をしている子供」の父親としての
体裁を保つための提案のみを押し付けてきました。
それなのに本人(父親)は
「自分がいかに寛容な人間か」と胸を張っている
冗談のような態度を目の当たりにしてきました。
(嗚呼、今思い出すだけでも
あの頃いだいていた父親に対する殺意が
ワナワナとよみがえってくる!)
たまに人から言われることなのですが、
「そんなに親が嫌なら
さっさと自立して親元から離れればいいのに」
という意見があります。
これに対する答えは
ひきこもりの人の数だけあると思いますが、
この本のなかに「損害賠償のようなもの」
という記述があります。
すなわち、親にひどい目に合わされたのだから
損害賠償として、養ってもらう権利があると考える、
というものです。
まぁ、親側からしたら
こんな考え方をされたら
たまったもんではない、と思いますが、
子供側からしたら一理ある、
と述べるにとどめておきます。
あ、だらだらと書いていたら
長くなってしまいました。
今日はこのへんでおしまいにしたいと思います。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。