村井秀夫刺殺事件の真相を追って -9ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

2016年冬頃からTwitterの更新が止まり、ネットでの活動をほぼ停止していた徐裕行。

 

今年度もほぼ目立った動きがなかったが、

12月12日、二十一世紀書院忘年会に姿を見せていたことが判明した。

場所は横浜中華街。

 

 

蜷川正大や山平重樹、元赤軍派の植垣康博の他、

維新政党・新風元代表の鈴木信行氏が参加している。

 

 

https://ameblo.jp/ishinsya/

 

鈴木氏はブログで痛烈に総連や日本国内の親北朝鮮派,よど号グループや工作員を批判しているが…

 

徐裕行

 

なんで極左テロリストや自称右翼の在日北朝鮮人と一緒にいるんでしょうね

わけがわかりません

 

 

ここに、一本の映画がある。「獅子王たちの夏」

 

脚本は西岡琢也氏。

「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」「はいからさんが通る」等、多数の映画やドラマ作品を手がけている。

そんな彼が、「シナリオ 1985年10月号」で、山口組三代目組長、田岡一雄が襲撃された事件「ベラミ事件」をモデルにした映画の構想を紹介している。主人公のモデルは、羽根悪美であると西岡氏は明言している。

 

 

羽根は、上峯憲司と徐裕行が所属していた羽根組の組長である。

 

準備稿が作られた途端、竹中四代目組長が殺害され山口組内部で抗争が勃発。

「今映画化しない方がいい」。「獅子王たちの夏」は暗礁に乗り上げたかと思われた。

 

しかし、6年後の1991年、映画は無事公開されることとなった。

出演者には哀川翔、的場浩司、香坂みゆき、そのまんま東、寺田農など有名な役者が参加している。

 

 

しかし、その中にある人物の名前が記載されていた。

 

監修:野村秋介

 

 

http://www.jmdb.ne.jp/person/p0362900.htm

 

野村秋介は一時期映画製作に熱心だった時期があった

http://www.asagei.com/excerpt/29584

 

 

羽根組若頭、上峯憲司は一時期「九州雷鳴社」に属していたが

その団体の命名者が野村秋介だったとサンデー毎日が報道している

 

 

 

学生時代から民族派手活動していた人物として鈴木邦男が該当するが

鈴木は野村の門下生である

 

 

続編の裏に徐裕行の影

 

「獅子王たちの夏」は続編が作られている。

タイトルは「獅子王たちの最后」

 

 

脚本は夏井辰徳氏

 

夏井辰徳氏 
1964年生まれ。岩手県出身。映画シナリオライター。主な作品に93年『獅子王たちの最后』(監督:高橋伴明、監修:野村秋介)、2004年サンダンス国際映画祭『九戸郡九戸大字九戸字九戸』日本代表、『BOX 袴田事件 命とは』など。他に音楽、書画などの活動をし、富士山の麓で半自給自足をしながらさまざまなボランティア活動を行っている。ガダルカナル島における残砲弾処理は自費で約10年行っている、とされる。

 

夏井辰徳は辻元清美と面識がある模様

https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/25392048.html

 

夏井辰徳のブログ

https://blogs.yahoo.co.jp/torotuky/60583752.html

 

 

夏井氏は袴田事件の免罪を訴える映画「BOX 袴田事件 命とは」を製作している

この映画の企画をしたのが後藤組・後藤忠政組長

 

 

後藤組長は野村秋介とは親交が深く、フィリピンで起きた石川重弘氏拘束事件の解放に関わった他、糸山英太郎が主催したパーティに多数の組員らと乱入騒動を引き起こし、1991年の「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」の反対運動で共闘している。

後藤組長が得度式を行なった場所は野村の菩提寺である浄発願寺である

 

後藤組はオウム真理教と不動産関連の取引など接点があった模様

 

 

そして東日本大震災時、後藤組長が主催した「G-rise日本」の代表を勤めたのが夏井氏

 

その副代表が村井秀夫刺殺犯・徐 裕 行

 

 

村井秀夫刺殺事件の裏で野村秋介の影がぼんやりと浮かぶ

オウム真理教幹部・村井秀夫刺殺事件の真犯人と対峙して

 

吉田悠軌

怪談サークルとうもろこしの会会長。怪談の収集・語りとオカルト全般を研究。近著『禁足地帯の歩き方』『一行怪談』『怪談現場 東海道中』。月刊ムーで連載中。オカルトスポット探訪雑誌『怪処』発行。

 

吉田氏の取材に応じる徐

 

2012年、吉田氏とカメラマン・廣瀬健氏はある事務所で徐裕行と面会し、インタビューを行った。

当時、徐は村井事件の捏造に奔走しており、吉田氏のインタビューも徐裕行の主張をありのままに掲載させる内容となった。

取材記事は『日本のタブーThe Max』『ブラック・ザ・タブー』にそれぞれ掲載された。それから5年後の2017年11月、吉田は『TABLO』にて、当時の取材について次のように懐述した。

http://tablo.jp/case/society/news002518.html

 

 

 

2017年11月23日


人混みの中で、二人の男がぶつかった。周囲の誰かが怒鳴りつけ、彼らをすぐに引き離す。体をぶつけられた方の男は、怪訝な表情で自らの左腕を気にしている。そこまではあたかも、満員電車で乗客同士がぶつかった程度の、日常的なトラブルにすら見えた。しかし次の瞬間、左腕を見つめていた男の体が崩れ、地面へと倒れこんでしまう。彼の名は、村井秀夫。オウム真理教幹部であり、教団内の科学技術省臣を勤めていた。そして村井の左腕を刃物で切りつけ、さらに右脇腹に13cmの深さまで刃を刺しこんだ男が、徐裕行である。

1995年4月23日。地下鉄サリン事件から一ヶ月が過ぎ、もはや日本中の誰もが黒幕はオウム真理教だろうと確信していた。教団側は必死に否定し続けるが、緊張の度合いは日増しに強まり、いつ何が起こるか分からない。南青山のオウム東京総本部(通称マハーポーシャビル)前には、200人もの報道関係者が常駐で待機していた。彼らがカメラを構え、ライブ中継しているその眼前で、一瞬の凶行が繰り広げられたのである。その生々しい映像はニュース番組やワイドショーで何度も放映されたが、さすがに悲惨だということで数日後には自主規制がかかる。

村井が刺された1時間後には、教団の広報を勤める上祐史浩が病院前で会見。「あなた達は、マスコミの報道で、犯人にまでなっていない人間を、起訴もされていないし逮捕もされていない人間を犯人と決めつけ、そして国民の感情を煽り、そしてそういう結果、いらぬ敵意を抱く暴漢を作り出し、そしてこういう結果に陥ったんじゃないのか!」「麻原を殺す気ですか今度は!」と報道陣をなじる一幕を見せたのも話題となった。

明けて24日の午前2時30分、村井の死亡が確認された。大量の輸血も間に合わないほどの出血性ショックが死因であった。そして5月16日、麻原彰晃ら教団幹部の一斉逮捕。サリン事件を含む裁判が行われていったのだが、教団内で科学技術を担当していた村井の死が、真相究明に大きな影を落としたのは間違いない。
 

第一印象として感じたのは「穏やかさ」「物腰の低さ」


2012年の夏、私は徐裕行のブログをまとめて読んでいった。メインで書かれているのは、北朝鮮拉致問題への解決を訴える文章だ。徐本人も言及しているように、これには在日朝鮮人3世であり、総連系(北朝鮮系)の朝鮮学校に通っていた出自も関係している。その他には、趣味のヨットレースや、時事ニュースへの意見、日々の雑記といったような記事も散見された。いずれにせよ、事情を知らない人間が読んだなら、このアメーバブログ管理人が村井刺殺事件の犯人であり、12年の懲役から戻ってきた人物だとは気付かないだろう。私は全記事に一通り目を通した後、ブログのメッセージ欄を開き、インタビューを依頼する旨の文章を書き連ねていった。

その半年前の2011年大晦日、オウム事件実行犯の一人である平田信が、丸の内警察署に出頭していた。続いて翌年6月、最後の逃亡犯である高橋克也が大田区にて逮捕。オウム事件全体における一つの区切りがついたタイミングだったとも考えられる。私はその前後で、BLACKザ・タブー誌面にて、新団体「ひかりの輪」代表となっていた上祐史浩への雑誌インタビューを担当した。さらに元オウムとは別の人間にも話を聞こうということで、徐裕行の名前が挙がったという次第である。

彼へのコンタクトは、ブログを経由する以外に連絡手段がなかった。アメブロのポップなメッセージ欄には不釣り合いな堅苦しい依頼文を送る。しばらくして、徐から一言「結構ですよ」との答えが返ってきた。幾つかのやりとりの後、喫茶店の会議室にてインタビューを行うこととなった。当日訪れた会議室は、やけに薄暗く古ぼけており、長年にわたって染み着いた煙草の臭いが空気をべたつかせていた。そして約束の時間となり、徐裕行を迎えにゆく。

彼に会った際、第一印象として感じたのは「穏やかさ」「物腰の低さ」だった。ただしそれは大人しい文化系の若者と同じような雰囲気ではない。例えるなら剣道の試合のごとく、しっかり相手との間合いをとっているような意識が察せられた。悪印象を受けた訳ではないが、緊張で自分の胸がキュッと縮むのが分かった。久田将義氏は著書『生身の暴力論』で「殺人者が自身の殺人行為を語る時、眠そうな目をすることが多い」といった旨を記している。しかし私が徐の瞳に見たのは、あくまで「冷静」な眼差しだった。


徐自身が"ある種"の心情をわざわざ吐露した


徐へのインタビューではやはり、オウム事件、北朝鮮拉致事件についての見解を聞くこととなった。後者について徐は、北朝鮮政府はもとより、周囲の在日朝鮮人についても、その問題意識の低さに批判的な意見を述べていた。彼は青年期には総連系の活動も行っていたが、「ちょっとおかしいなという気持ち」から離脱。以降はむしろ右派寄りの活動を行っていったようだ。彼の思想の変遷について、取材不足の私には断定できる材料はない。ただし政治的立場はともかく、彼の心情は「身内」と「外部」を分けるタイプであるのは間違いないように思える。

インタビューにおける主眼は言うまでもなく、村井刺殺についての動機を語ってもらうところにあった。徐は「今になって言葉に表せというのは非常に難しい」「皆さんにも分からないかと思う」としつつ、その理由を「許せないから」との言葉にまとめた。

「僕は家族愛というか、両親や兄弟親族への愛情が強い方なんです。家族関係のように愛情で結ばれている人たちが、第三者の犯罪行為によって強制的に離間させられることに対して強い憤りがあるんです。拉致事件でも同じことが言えますが、家族を無理やり引き離すようなことが許せない。そういうことに対する怒りは、サリン事件の時は非常に強かったですね」

 一時期、村井刺殺事件はオウム教団内部による差し金ではないか、との話が飛び交った。科学技術省大臣としてサリン事件の秘密を握る村井の口封じをはかったのでは、という言説だ。もちろんこれについては、徐裕行とオウムの双方が否定。一斉逮捕後、オウムを離れた上祐も「そういった事実はない」との立場をとっている。裁判でも立証されなかったし、徐と上祐の双方から話を聞いた私個人としても、さすがに考えすぎの陰謀論だろうとは思う。

もちろん本稿は事の真相を追うのが趣旨ではないので、その是非については置いておこう。また、徐裕行が初対面の私に胸襟を開き、自身の精神をあますところなく開示してくれたとも思えない。ただいずれにせよ、徐自身が上記の通り「身内」と「外部」を分ける心情をわざわざ吐露していることには注目したい。この心性は「左翼」よりも「右翼」寄りのタイプであることは間違いないだろう。

オウムにまつわる議論について、あの教団が「右翼か左翼か」を問う行為はあまり為されていないように見受けられる。それよりもまずオカルティックな秘密宗教団体の側面が先行するからだろう。とはいえ、いちおうオカルト研究を業とする私から言えば、オカルトという思想の中にも矛盾せず存在する別レイヤーとして「右翼」「左翼」の傾向は確かにある。80~90年代の一部の若者に訴求されたオウム真理教は、ニューエイジ、欧米経由で「再発見」されたヨガと原始仏教を宗教的出発点としており、思想としては左寄りだったと言えるだろう。

非常に乱暴な括りとなってしまうが、人間関係の好みだけを注目すると、右翼は「身内」と「外部」を分け、左翼は「ワン・ワールド」にまとめたがる。そしてオウム幹部たちの理屈に立脚すれば、サリン事件含め人類全体の魂上昇を試みる「ポア」とは、根本的には20世紀共産主義の「世界革命」の発想と似通っている。徐がオウムに対して殺意へ至るまでの「許せなさ」を抱いたのは、双方の根本的な精神性に相容れなさを覚えたせいもあっただろう。


人を殺すか、殺さないかは、紙一重

 

徐はまた、インタビュー中でこんなことも述べている。

マスコミがあれ程までにオウムがやったんだという"絶対悪"としての大量の報道をしていなかったら? というのも一つの要因でしょう。例えばそういう報道が流れ、巷では酒を飲みながらTVを見ながら「あいつら許せんな」「死んでしまえばいい」と......当然、僕もそういう会話をしたし聞いたりしましたよ。そこで行動するしないというのは、本当に紙一重。なんらかのキッカケがあれば、誰でもそういうことになりうる。世の中の人たちがそうなりうる事件だったと思います。

村井が運ばれた病院前にて、激昂した上祐が言い放った言葉と、奇しくも似た内容を語っているではないか。さすがに現在の二人とも、村井刺殺事件の責任を「マスコミにある」と転嫁したい訳ではないだろう。しかしこれは双方が真逆の立場ながらも、自分たちはマスコミという現体制に対抗する「反体制」なのだという心情吐露であるように、私には感じられた。

徐裕行がオウム幹部・村井秀夫を刺し殺したあの事件は、表舞台で繰り広げられる政党の左右対立とは全く別の地点で起きた、「右」vs「左」の結節点だったのである。

村井の刺殺現場であるオウム東京総本部ビル。その建物は最近までずっと、南青山七丁目の交差点に忘れられたように佇んでいた。私は週に一度は目の前の通りを歩いていたので、視界の端に入るビルの様子をいつも気にかけていたものだった。入居しているテナントも存在していたが、ビル内には人の気配が感じられず、がらんとした空虚なハリボテが道沿いに置かれているようだった。正面のガラス窓にはいつも「テナント募集中」「FOR RENT」といった広告が何枚も張り出され続けており、罪のないビルオーナーには申し訳ないが、もはや何かの冗談のようにしか感じられなかった。そして事件からちょうど20年が経った2015年4月、そのビルは取り壊された。敷地は今のところ、歯抜けのような空き地となったままである。

この記事を書くにあたって、私は5年ぶりに徐裕行のブログにアクセスした。するとそこに、一つの奇妙な偶然が待ちかまえていた。徐のブログもまた、2015年4月の記事からずっと更新が途絶えていたのだ。私のインタビューの最後にも、ブログから拉致問題解決の署名を訴えていたほど精力的に活動していたのだが......。彼が刃を手にして村井に向かっていったビルが解体されたのと全く同じタイミングで、そのブログもまた終わっていたのである。(敬称略)

 

取材・文◎吉田悠軌(フリーライター)

 

 

筆者の意見

 

吉田氏は取材不足と認める一方で、事件の背後関係は陰謀論と断言し、徐を根拠もなく右翼と認定している

上祐も徐も鈴木邦男も「村井事件はマスコミが煽った結果起きた事件」と主張し、当時から責任転嫁を図っている

オウム真理教も頻繁にマスコミへの責任転嫁を図り坂本事件を隠蔽した事実もある

 

また、当の安廣裁判長が犯行の背後関係はいまだ解明し尽くしておらず、不透明な点が残されていると言わざるを得ないと指摘しており、裁判長が捜査体制に疑問を持つ発言を残している

そして徐裕行本人が「若頭の指示でやった」という証言も残されているが、吉田氏は一切触れていない

 

徐が在日2世なのか3世なのかは不明

(出身地も群馬県なのか東京なのかはっきりしていない)

 

 

徐裕行の仲間の鈴木邦男は日本人拉致事件に協力したよど号グループとも仲良く面会しているのだが(詳細は八尾恵著『謝罪します 』に記載あり)

徐がこの事実に触れないあたり真剣に拉致問題に取り組んでいるとは到底考えられない

(ついでに活動も放棄)

 

吉田氏は犯行側の主張を聞いただけで事件の全貌を把握したような錯覚に陥っているようだが警察や裁判官、医療関係者、検事、上祐以外のオウム信者も事件に立ち会っており、取材の対象になる人ならまだいくらでもいる

 

無責任な駄文をネットで垂れ流す前に、当時の報道記事を見直したり、広範囲の取材をして事件を見直すべきではなかったのだろうか?

 

Twitterを検索していたところ、ある人が吉田氏の記事について、次のような批判をしていた。

 

「この元受刑者が、殺害を指示されたと名前を挙げて逮捕された人物がいて、裁判までしているのになぜその事には触れない。今になって誰にも「指示されていない」なら、事実を隠している」