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村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●徐裕行ってどんな人?



1965年5月25日。
在日朝鮮人、徐裕行ことソ・ユへン(서유행)は群馬県桐生市に生まれた。(一橋文哉氏は高崎市出身と主張している)。血液型はAB型。

徐は、在日韓国人3世をブログや著書で自称している。本人によれば祖父が日本で成功し、東京市深川区(現・東京都江東区)の区議会議員に出世したという。ただし、各メディアは徐の国籍を”韓国籍2世”と明記している。(これは読売・産経・毎日・朝日その他すべてのメディアが報じている)。

徐の両親は息子の身元を隠すために「タナカ ヒロユキ」という通名を名乗らせた。徐には2人の姉がいた。

徐の母親は過去に深川区から板橋へ移住しながら、古着の回収をしたり、酒の密造をしていた。密造が発覚して何度か警察に取り調べられたこともあった。



戦後、在日朝鮮人の集落では密造酒の製造が盛んであった。衛生上問題があることから、税務署や警察がこれを取り締ろうとしたが、激しい抵抗に遭い、1947年に税課長が殺害される事件が起きている。

父親の職業はタクシー運転手だったという。在日社会ではユ・ボンシがタクシー会社「エムケイ株式会社」を創業させ、事業を拡大させており、朝鮮人には就職しやすい窓口だった。

1968年、徐は国籍を朝鮮籍から韓国籍へ変更。

あるとき、徐の父親は、息子を腕に抱えながら次のように言った。


徐の父親「ユへンや」

徐裕行「なんだい、アボジ?」

徐の父親「お前のな、お前の祖先は、両班なんだぞ」

両班とは、朝鮮でいう貴族をさす。

徐の父親「おまえはナ、達城徐家の末裔なんだぞ。おまえの祖先は両班なんだぞ」

徐の父親は、熱心な民族主義者だった。というのも、過去に日本人から、「センチョー、センチョー」とからかわれ、内心日本人を嫌っていたからである。怒りに任せて喧嘩を買うことさえあったという。

徐の父親「イルボンの女とは結婚するな。民族の血を汚すわけにはいかないからな。いいな?」

徐裕行「わかったよ、アボジ」

徐の父親「朝鮮人はナ、両親を尊敬して、親の言うことに逆らわない優秀な民族なんだぞ。お前も日本人と違って、頭がいいから、しっかり親の話を聞いて育つんだぞ」

徐の両親は、自分の息子に熱心な民族教育をした。東京都足立区興野へ移住した徐裕行は、親の熱意から東京朝鮮第四初中級学校へ進学した。

徐裕行「いってくるよ、アボジ」

徐の父親「ユヘンや、しっかりハングルを覚えてくるんだぞ!」


●徐裕行、朝鮮学校へ



朝鮮学校。日本でくらす朝鮮人の子供たちに、祖国のことばや、文化、歴史を教育する場所である。日本各地に存在し、朝鮮人たちのコミュニティの場としても機能していた。ところが、この学校には恐ろしい一面があった。北朝鮮の国外機関「朝鮮総連」が運営する学校で、子供たちに北朝鮮の思想教育をさせていたのである。東京朝鮮第四初中級学校もまた、北朝鮮系の学校であった。



教師「偉大なる首領様、金日成主席は、白頭山を拠点に日帝野郎を叩きのめしました。神出鬼没、百戦不敗の首領様が姿を見せると、憎き日帝野郎どもはしっぽを巻いて逃げだしました」

「首領様は縮地法も使い、変身術、忍術、昇天入地、 術法に長け、天文地理にも明るく、千里離れたところにいても日本軍の動きを掌を見るように把握されました。 首領様の意は天に届き、首領様の人柄は天下を抱くほどで、首領様の知略は非凡無双であり、この世に右に出る者はいませんでした」



神通力の使い手だとされる金日成の伝説に、朝鮮学校のこどもたちは熱狂した。それはまるで麻原の超能力に心酔するオウム信者を想起させるものだった。反日教育の洗礼をうけた徐裕行も、いつしか日本人を見下すようになっていた。この学校で徐は、高英雄という少年と親しくなっている。高もまた、「タカヤマ ヒデオ」という通名を持ち、日本人に成り済ましていた。

4年生に進級した徐は、足立区内の日本の小学校へ転校した。
徐は日本の子供の習慣に嫌悪感を感じた。やがてケンカばかりする乱暴者になった。ただ、教師からの勧めで読書だけはしっかり続けたため、日本語が上達した。

徐の友人「小学校からのワル。ケンカばかりして、とても強かった。でも、あの年ごろはみんな同じですから、特別でもない」



中学を卒業した徐は、都立足立区工業高校に入学している。しかし、「社会に出たい」との理由で2ヶ月で退学し、解体業者の見習いとして働き始めた。しかしそれも続かず、印刷関係の会社やデザイン事務所を転々としている。


●徐裕行と朝鮮総連

このころの徐の経歴は空白期間が存在し、よくわからない所が多い。ただ、10代から20代前半にかけて北朝鮮を支援する活動をしていたことは判明している。徐は朝鮮総連足立区支部に入団したことを認めているが、詳しい言及は避け続けており謎も多い。


(JAPANISMより。画像の”東京生まれ”は誤り)

徐は当時の様子を「JAPANISM6号」で振り返っている。


徐「朝鮮総連自体は「朝鮮人ならば朝鮮の姓を名乗るべきだ」と若い世代に教えていましてね。僕自身、若い学生を捕まえて「君は本名を名乗るべきだ」なんて行っていました。でもそう言ってる本人は普段、日本の姓を名乗っているんですよ」

ここで徐は通名を名乗り続けた理由については回答していない。

支離滅裂な証言ではあるが、実際のところ、徐はどんな活動をしていたのだろうか。

実は「指紋押捺拒否運動」に参加した過去があった。



日本ではかつて外国人登録の際に指紋の押捺・提出が義務付けられていた。犯罪抑止ために必要な措置だったのだが、左翼関係者から人権侵害として批判され、1993年1月に廃止された。

しかし、人権侵害は表向きの理由で、実際には日本における北朝鮮の諜報活動を容易にするためではないかという疑念の声も出ていた。そんな日本の法律を、徐は朝鮮総連の一員となって踏みにじったのである。



●徐裕行とチュチェ思想研究会



また、徐が都内にある「チュチェ思想研究会」の支部長を務めたとされる情報も散見される。
チュチェ思想研究会とは、北朝鮮の政治思想主体思想を信望する北朝鮮国外の団体である。
1971年に尾上健一が日本国内に設立させ、74年に全国組織として展開させた。主な活動内容として、在日米軍基地の監視がある。

会員の中には有本恵子さん拉致事件の実行犯、八尾恵も入団していた。八尾は1977年に北朝鮮へ渡り、よど号ハイジャック事件の実行犯柴田泰弘と結婚、その後ヨーロッパへ渡り、朝鮮工作員キム・ユーチョルと共謀して、旅行中だった有本恵子さんを拉致している。日本へ戻った後は自衛隊の情報を引き出そうとしたが、神奈川県警に逮捕されている。

(高沢皓司氏や伊勢暁史氏によれば、八尾はオウム真理教とも接点があったといい、青山吉伸をはじめオウム幹部と何度か接触していたとされる)。

現在は佐久川政一会長と、武者小路公秀理事が運営している。


徐裕行、ホモを襲う




ある日、徐が渋谷発井の頭線に乗り込んだ時の話である。
車内は人影がまばらで、空席はあったが、徐は入り口の反対側のドア際にたって読書をしながら発車を待つことにした。徐の周りにも乗客が立ちはじめた頃、徐の局部に生暖かい感触が走った。温もりは動かない。徐は人相の悪い顔をあげた。目の前には大学生らしき少年が立っている。
車内はいくらか空間に余裕が残っているのに、少年は不自然かと思える距離で徐の前に立ち、窓の外を眺めていた。

徐裕行「何してんだ、この野郎っ!」

徐は両手で少年を突き飛ばした。1mほど突き飛ばされた少年は、さらに1mほど後ずさりし、そのまま背を向けて隣の車両へ逃げていった。周囲の乗客が好機の視線を徐に向けた。平然を装うとした徐だったが、客観的にみれば突然怒りだし、か弱い学生に危害を加えた狂人である。電車のドアがしまり、発車した。2分後、次の駅で止まると徐は無言で電車から降りた。


徐裕行と「イベントダイヤル」

1986年、徐は広告代理店「アサ」にスカウトされて転職した。アサの社員は当時20人だった。

「彼は本当に仕事熱心な男で、優れた営業マンだったし、自分で営業した企画を立案する能力ももっていた。以前に印刷会社にもいたようで、版下についての知識もありました。人間的にも正義感が強く、細かいところにも気がつく。親分肌のところもあり、若い者には人望もあったし、愛社精神も持ち合わせていた」(当時の先輩社員)

熱心な仕事ぶりと営業成績が評価され、徐はこの会社の経営者がつくった企画会社「イベントダイヤル」に移り、経営をまかされるようになった。「イベントダイヤル」は渋谷区の古いビル内にあり、従業員8人(男性5人、女性3人)が働いていた。



 ここで徐は、取締役から代表取締役へ出世し、大手広告代理店の下請けをしたり、宣伝イベントをで使う道具のレンタルを仲介するような貸務を行った。社員がバグパイプの演奏で出張したりもしていたという。平成2年ごろブームを呼んだ人面魚のリースも手がけ、これが話題になってテレビ出演もした。



仕事仲間「公私のハッキリした人。会社にプライベートな電話が一本もかかってこない。仕事はできたが、接待はしないし、会社の人間と飲みに行くこともなかった」

別の関係者「世の中のできごとにも関心がない。新聞を読んでいる姿も見たことがないし『十年先はわからないよ』なんていう刹那的な面もありました。表情も乏しく、感情をあらわにしないタイプでした」

当時の広告業界の知人によれば、徐は黄色い名刺に「代表取締役 田中 裕行」と書いていた。しかし、一方でこんな話もある。

「当時、田中という日本名を名乗っていたが、韓国人であることに誇りを持っていた」

「彼は公私のケジメがハッキリした人間で、例えば、仕事を通じての友人、知人の関係を右側だとします。私はその一人になる訳ですが、反対の左側には彼が幼い頃から親しく付き合ってきた韓国人グループというか、そうう交友関係があった。しかし、この右と左のグループはまったく互いを知らない。彼が紹介することもなかった」

企画会社の関係者「公私の別をハッキリさせるタイプで仕事は淡々とこなすけど、プライベートの話はいっさいしなかった。ただ、幼なじみには金融業者や水商売の経営者などが多く、休日にはよく会っていたようです」

1991年、徐は特別永住権を取得。この頃の徐は非常に充実していたようで、徐裕行「ワルだった俺がいまこうあるのもあの人(親会社の社長)のおかげだ」と会社の仲間に語っていた。

しかし、バブルがはじけると、親会社の「アサ」や、「イベントダイヤル」の経営が悪化しはじめた。徐は毎日大量の胃薬を飲んで経営を立て直そうとしたが、うまく持ち直すことができなかった。
1992年10月、「イベントダイヤル」は倒産してしまった。徐は総額2,300万円の負債を抱えこむようになっていた。

企画会社の関係者「会社自体は1年ほどで不況のあおりを受けた親会社が援助を減らしたため、一気に経営が苦しくなり、1年半ほどで倒産してしまった。本人も神経性胃炎になったとかで、大量の医薬を会社でよくのんでいましたね」

「倒産する年の8月に、突然、彼が深刻な顔をして私のところに来ましてね。それまでは酒を飲んでも弱気なところを見せない男でしたが、この時ばかりは「会社をやっていけそうもない。8月以降の主だった仕事が入ってない。破産しようと思う」と弱気になっていました。ひとまず、その時はアドバイスすると、元気を取り戻して帰っていったんです。その後2カ月ほどして、彼が会社から逃げたという話を聞きましたよ」(当初、資本提携関係にあった会社関係者)

徐から独立して別の会社を立ち上げた経営者は、苦い経験を語っている。
この経営者は徐にイベントのコンパニオンの斡旋をしているのだが、「その代金350万円が未払いになっていたので事務所に請求に行った。50万円を即金で払ってくれたが、残りは未払いのまま姿をくらました」。

徐は逃げ足同然で、つくば市の友人S宅に身を寄せ、古紙回収業などをしながら、かろうじで生計を立てた。この仕事も長続きはしなかった。



93年3月、足立区の実家へ戻った。しばらくして、徐はイベントダイヤルの仲間と再会した。

「再会した彼が、仕事を探しているようなので、うちの会社にきてもらったんです。『力を合わせて再起しよう』と誓い合ってね。彼に任せられる大きな仕事もできそうだったし、声をかけたんですよ。会ってみると健康そうだし、屈託もない以前のままの田中(徐)でした。つくばでは肉体労働をしていたようですね」(徐が勤めていた会社のかつての上司)

 ところが、93年12月中旬のある日、突然、徐は無断欠勤をする。当時、彼は足立区内の実家から通っていたが、机の上も仕事中のまま、鞄も会社に置きっぱなしで3日も4日も連絡がなかった。この上司が約10日後に会社に来てみると、机の上がきれいに整理され、かばんもなくなっていたという。

「どうしてあんなことになってしまったのか、私にはサッパリわかりません。あえて推測するなら、彼の内面には二つの相反するものの葛藤があったのかもしれません。ご両親のように、地道にコツコツ働いて自己実現をはかる部分と、それを拒否する部分とね。でも、宗教などにはまったく関心がなかったはずです。生い立ちを通じた交流関係で何かあったのでしょう。そちら(朝鮮籍)の友人を酒の席に呼ぶということは一度もなかったですし」

上司の心配を他所に、一方的に関係を絶った徐は、ヤクザの世界に憧れ、朝鮮学校時代の旧友、高英雄の元へ転がり込んだ。




●徐裕行の同居生活



11月、徐は幼馴染だった高英雄の紹介で、世田谷区上祖師谷3丁目1–15の2階建て家屋で共同生活を始めた。土地は25坪ほどあった。(現在家屋はリフォームされており、ベランダなどが増築されている。)
この地域は平穏な住宅街で坂道が多く、付近には墓地や畑がある。2000年の大晦日にはこの地域で「世田谷区一家四人殺害事件」が起き、現場周辺は公園や空き地で広がっている。


この家を管理する女性P・H(当時55)は、東京品川区五反田にある韓国クラブMを経営していた。

彼女の姉は、北朝鮮工作員・辛光洙の愛人、朴春仙であることが判明している。そして、P・Hは辛光洙とも面識があった(辛光洙については次章で後述)。

話を戻すが、徐が居候した家は、1987年にP・Hが投資目的で購入したという。

P「ある人に1000万円くらいの儲けになると進められて、朝銀(朝銀東京信用組合)から借金して買ったんです。ところがバブルの崩壊でしょ。空き家にしとくよりはと、知人に貸していたんです。で、去年の12月からは、Bが住みたいっていうから貸したんです。息子の親友だから昔から私もよく知っていたし。それを何人かで住んでいたなんて、事件が起きるまで知らなかったんですよ。たんに大家だったというだけで、うちも迷惑しているんです」


「FRIDAY」の取材に答えるM・T

Pの貸家を初めに借りたのはM・T(当時29)という在日朝鮮人である。ここで、Mの証言を引用してみよう。


M・T「部屋を借りたのは去年の11月初め。最初は俺一人だったけど、何日かして高校の同級生(高英雄)が泊まるようになり、そいつが地元の幼なじみで小学校の同級生の徐を連れてきて3人で暮らすようになった。高は金貸しや取り立てをやっており、家賃の10万円を、高と俺で折半した。徐は布団と下着を持ってやってきた。いわば居候で、ここに来てからは、高の仕事をたまに手伝っていたみたいだった」「FRIDAY」(95年6月2日号)

M・T「オレが去年、朝鮮高校時代の友人に安い部屋はないかと聞いたら、おふくろ(P)の物件がある、というので借りることにしたんだ」「週刊ポスト」(95年5月26日号)

M・T「住み始めて一週間ぐらいしてから、やはり朝鮮高校の同級生だった友人の高から一緒に住まないかと持ちかけられた。一軒家だし、家賃が10万円だから5万円ずつ出しあって相撲ということになったんです。田中(徐)とは、去年11月中旬に、高から小学校からの幼馴染みと紹介されて知り合った」

M・T「最初は住むということじゃなく、今日止まりなよ、ということから始まって、ズルズルと居候みたいになったんだ。そんな関係だから徐の人間については、よくわからない。超古代がどうした、ユダヤがとうしたとかいう歴史物の本をよく読んでいたね。だけど、オウム真理教には興味がなかったよ」

M・T「高山さん(高英雄)と徐は同じ金融会社の同僚でしたが、わたしとは仕事の話はしませんでしたね。趣味は4コママンガとあとは飲みにいくぐらいかな」「アサヒ芸能」


徐裕行が通っていたスナック店「Roman」


当時のテレビ映像より。

こうして3人の居候生活が始まった。Pが経営する韓国クラブにも、3人一緒に行ったこともあるという。

M・T「11月か12月でした。オレは家を貸してくれたお礼の意味で店に行ったんだけど、でも、3人で暮らしているなんて何となくいえないからね」「週刊ポスト」(95年5月26日号)

しかし、P・Hは「徐には会ったこともないし、見たこともありません。今度のことでうちも迷惑を被っているんです」と真っ向から否定している。「週刊現代」(95年8月12日号)


3人の生活は近所の日本人からは異様に見えた。深夜まで電気をつけて出入りしたり、郵便受けにチラシがたまっていた様子だったため、周囲から蛇蝎のごとく嫌がられていた。

住民「派手な服を来た30歳くらいの男2、3人と出入りしていた。何をして暮らしているのか不思議だった」

近くの商店主「金のアクセサリーをした派手な服装の若い男性らが住んでいたようだ。庭の草が伸び放題、郵便受けの郵便物も山積み。近所付き合いもなく得体の知れない家だった」


近所の主婦「新聞で犯人の顔を見てびっくりした。2、3日前にあの家の庭で立ち尽していた。冷たい目つきが恐ろしかった」「産經新聞」(95年4月25日朝刊)

自営業店主「いい天気だねなんて話しても何も言わないで笑っていた。徐容疑者は昨年の11月ごろから見かけていた。あそこの住民は極力周囲との接触を避けている感じでここらの者は、みんな気持ち悪がっていた」

「あそこの住人とは話したことがない。深夜に帰ってきて昼ごろ出ていく。みんな身長が180㎝ぐらいでガッチリしている」

同家には黒の四輪駆動車が止まっていることが多く、夜になると頻繁に出入りしていた。

(高沢皓司氏によれば、このM・Tの父親は朝鮮総連の幹部だとされる。)


●朝鮮ヤクザ

高英雄が経営する金融業の事務所で手伝いを始めた徐は、Gという在日の羽根組組員と親交を結び、羽根組の準構成員となった。羽根組には在日朝鮮人の構成員が多くいたが、仲間うちでは『田中』と名乗った。

三重県伊勢市内の羽根組事務所に顔を出すようになった徐は、行儀見習いとして事務所の雑用を任されるようになる。この頃、Gや高英雄の紹介で羽根組若頭・上峯憲司と出会った。94年8月と12月には上峯に連れられて山口組本部の駐車当番を経験した。

また徐は仲間から「韓国から来たホステスの在留期間が切れるので、そのホステスと書類上結婚してくれ」と頼まれ、偽装結婚の手続きをした。このとき謝礼は150万円だと言われたが、謝礼の一部だけ受け取り、その後は毎月10万円ずつ貰っていた。

捜査関係社「関係の深い若頭が殺されて、上峯とともに、通夜、葬儀にも出席しているし、徐が羽根組長をガードして一緒に帰京したり、東京のニューオータニに宿泊したりもしている。当時の生活資金だが、組関係社から彼の銀行口座に振り込まれた10万円を、1日に1、2万ずつ引き出すという状態だった」。


「FRIDAY」の取材に答えるG夫人

やがて徐は、Gがシノギとして始めた宅配ヘルス業の手伝いを94年11月から95年3月頃まで続けた。

G夫人「仲間うちでは田中裕行と名乗っていました。以前はイベント会社をやっていたということも、彼から直接聞きました。『けっこう大きく失敗しちゃったんで、残務整理で月に1~2回は広島に行かなきゃ行けないんです』とも」「FRIDAY」(95年6月1日増刊号)

こう話すのは、徐の東京での姉がわりともなっていたG夫人。彼女の夫は羽根組の構成員Gである。

G夫人「主人は『弟の朝鮮学校時代の同級生の後輩だ』といってました。私は絶対にヤクザ関係の人は家に連れてこないでくれと念を押していたんです。だから昨年の秋口に最初に田中(徐)さんが来たときも、ヤクザじゃないわね、本人にも確認しました。そのうち11月ごろに田中(徐)さんが主人と出張マッサージの仕事を始めることになり、私の持っていた転送用の電話回線と携帯電話を貸してあげたんです。彼は住まいがなく、主人と同じ羽根組構成員で彼の幼なじみの高山さん(高英雄)の家に居候状態だったから」「FRIDAY」(95年6月1日増刊号)

徐裕行はそれ以降2日に1回は律儀にG夫人宅に顔を出すようになった。


●徐裕行と阪神淡路大震災



95年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生。兵庫県を中心に6000人以上の人々が犠牲となった。

同日午後6時、大阪市内の近鉄・上本町駅付近。平服の暴力団幹部風の男と、戦闘服を着た若者3人の計4人がタクシーに乗車した。

上本町駅は、羽根組が事務所を置く三重・伊勢市から近鉄特急で来るルートである。
幹部が助手席に座り、戦闘服の3人は後部座席に座った。3人は徐裕行と羽根組若頭の上峯憲司、高英雄。このとき、徐は「羽根」のネーム入り特攻服を着ていた。

タクシーは山口組本部へ向かった。だが、震災の影響で大渋滞に巻き込まれ、神戸市内にたどり着いたのは15時間後の翌朝18時9時ごろ。車は10階建てビルの崩壊で立ち往生。やむなく総本部手前で下車して歩いたという。

暴力団幹部の移動は通常マイカーだが、震災ボランティア活動指令のため、電車とタクシーの移動になったとみられる。

また、羽根恒夫組長も本部の被害を心配し、組員とともに神戸へ向かったという。


●徐裕行と地下鉄サリン事件



3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。
「週刊金曜日」(2011年9月16日)のインタビューで徐は当時の様子を次のように答えている。

徐「方南町(東京都杉並区)に住んでいる親しいあるご家族のこともすごく心配になり、すぐに連絡を取り合ったりしました」

当時の資料を確認した所、徐が連絡したある家族とは、羽根組関係者のG夫人だったようである。

G夫人「地下鉄サリン事件の日、田中(徐)さんから電話があったんです。いきなり『皆さん大丈夫でしたか?』と聞かれて最初は何のことだかわかりませんでした。そうしていたら『地下鉄のことやっているでしょう。もしかしたら、と思って』というんです。そんなに心配しなくてもいいのに、と思うほどでした。ところがその後オウムが犯人じゃないか、と報道されるようになったときは『こいつら頭おかしいよなぁ』と他人事っぽいいいかたしかしませんでした。オウムだけでなく創価学会や統一教会などのことも一度も聞いたことがありません。『好きな奴が入っていればいいだろう』という態度でした」「FRIDAY」(95年6月1日増刊号)


3月30日、警察長官狙撃事件が発生。当時の徐の様子を同居していたM・Tは次のように語っている。
M・T「国松警察長官が撃たれたというニュースを家のテレビでいっしょに見ていましたが、『すごいな・・・・』とポソッというだけでしたよ。それにオウムのことで、わたしに何か話題を振ってくることはなかったし、こっちが話しても適当に受け流しているだったね。だから彼があんな行動に出たのか、いまだにわからない」「アサヒ芸能」(6月8日特大号)



しかし、この頃から徐は一部の知人の前でオウムの話題をこぼすようになる。徐はスナック店の女性にこんな冗談も話していた。

徐裕行「オレも第20サティアンにいた。オウムのコードネームはデカイマラ」。「別冊宝島」(隣のオウム真理教)

オウムのコードネームとは、ホーリーネームのことだろう。村井がマンジュシュリー・ミトラと呼ばれていたように、上記のエピソードから徐もオウムに関心を示していたと考えられる。


徐が遊んでいた飲み屋街「まるよし横丁」

世田谷区内のバーのホステスが言う。
ホステス「いつも友達と2人で来て、明るく飲んでましたよ。好みの女の子に『ちょっと、ちょっと、』と呼びかけて彼女が耳を近づけると『フーッ』と息を吹きかけたりして、ふざけたこともありました」

ホステス「マスターが『おう。最近ヒマ?』と聞くと『ヒマだよ~』と答えて。『でも、これからオウムに入信して忙しくなるんだよね』と答えたんです。もちろん、このごろのお客さんはオウムにからめた冗談をよくいうし、あのときもそれかと思いましたよ。でも『入信する』っていっても、そんなにおもしろくもないし、何のつもりなのかなあという感じでした」「アサヒ芸能」(6月8日特大号)

金融業やデリヘルの運送業をしていた徐。しかし、この頃にはこれといった仕事はなく、毎朝喫茶店に入ってはGと「これから何をやって食っていこうか」と相談したり、新宿へ出てパチンコをしたり、ブラブラした生活を送った。



徐裕行は世田谷区内のカラオケスナックに頻繁に通っていた。店側からは尾崎豊の「卒業」が得意な客と印象を持たれていた。ここで徐は、意味深な発言を残していたことが判明している。


カラオケ店関係者「いつも、Mさんという友人と来ていましたが、勘定のほとんどは田中(徐)さんの支払いでした。”法律スレスレでも、金儲けした人間の勝ちなんですかね”と聞かれたことがあります。最後に来たのは、4月17日でした」「週刊ポスト」(95年5月26日号)


この一節に私は徐裕行の歪な本性が集約されているように思えてならない。
なぜなら、路頭に迷った哀れな男の人生が、”あの事件”を境に大きく変貌しているからだ。
●オウムと全日空857便ハイジャック事件



1995年6月。函館空港で「全日空857便ハイジャック事件」が発生した。
犯人は当初オウム信者を称し、液体の入った袋とプラスチック爆弾らしき物を持ち込み、尊師の釈放と羽田空港への離陸を要求した。上祐はハイジャック犯と教団の関係を否定。警察側はSATを投入し犯人を逮捕。乗客は解放された。プラスチック爆弾は偽物で、袋の液体もサリンではなく、ただの水道水だった。犯行動機は愛人関係による自暴自棄、週刊誌の「オウム信者によるハイジャック計画」記事を見て影響受け、麻原と無理心中を計画していたという。97年に懲役8年の判決よ53000万円の損害賠償を受けた。この事件で上祐はハイジャック犯がオウム信者であれば即刻除名するとインタビューに答えた。

●上祐狙撃事件



1995年10月6日午後11時。
村井が刺殺された南青山総本部に、短銃5発が撃ち込まれた。
総本部前には100人以上の警官と報道陣が集まっていた。銃声が響いた時、報道陣は何が起きたのか瞬時には分からなかったが、護送車に警察官が集まったのを見てなだれを打ったように駆けつけた。現場で連行されたのは、白いトレーナーに迷彩色ズボンの坊主頭の男性。

銃刀法違反などの容疑で逮捕されたのは、埼玉県川口市栄町二丁目、右翼団体「国憂会」構成員佐久間昭二(当時27)

警視庁公安部の調べで佐久間は「銃は新宿で買った」と自供。「9月下旬ごろ、新宿あたりをぶらついている時、知らない男から買った」と話した。使われた拳銃は米国製の38口径だと判明。

犯行の動機は「オウム真理教が皇室を攻撃するという雑誌の記事などを読んで、いつかやってやろうと思っていた」と供述している。

事件当時、上祐史浩は4階の自室にこもっていた。

佐久間は「人に危害を加えるつもりはなかった。(発砲は)誰にも相談していない。一人でやった」と単独犯を強調。しかし供述にあいまいな部分があり、右翼団体幹部などから犯行の指示を受けていた疑いもあるとみて捜査を行った。佐久間が所属していた国憂会は、1990年に中曽根康弘の選挙事務所で短銃を発砲する事件を起こしていた。

警視庁は午前9時すぎから発砲事件の現場検証を開始、大型の特殊はしご車を使い、同本部4、5階の壁面を中心に弾痕がないかなどを調べ、弾痕一つを確認した。

厳戒態勢の中での大胆な犯罪。
捜査関係者は「村井刺殺事件の二の舞にならなくてよかった」と話した。



●上祐史浩のその後



1995年10月7日、上祐史浩は偽証と有印私文書偽造・同行使の罪で逮捕された。
この日も上祐はヘルメットに防弾チョッキを着用し、不敵な笑みを浮かべながら護送車に乗り込んだ。懲役3年の実刑判決を受けて服役した上祐は、2002年1月29日にオウム後継団体「アーレフ」の代表に就任した。



出所後、上祐は心境の変化を”告白”し、痛烈な麻原批判を展開。かつて舌戦を繰り広げた有田ヨシフや田原総一郎、森達也、河野義行らと交流を結び、オウム事件を総括した著書を数冊出版した。またロシアの信者暴走を防ぐため、シガチョフ事件の阻止にもあたったという。ただし公安調査庁によると、上祐のアレフの設立は観察処分を免れるためだとされ、徹底した”麻原隠し”をしながらオウムの継承をしているという。

上祐は村井秀夫刺殺事件について、事件当時、釈放直後、徐裕行との対面後と、証言を二転三転させている。ここで、上祐の主張の変化を時期ごとに分けて紹介する。


●週刊プレイボーイ2000年2月15日号

上祐史浩「彼(村井)は刺殺される直前に、オウム真理教の事件その他はユダヤの陰謀であると言おうとしていた、そんな気配がある」

「ユダヤ叩きというのは、僕にはどういう意味なんかよくわからない」
「彼はあの直前に、テレビに出演してユダヤ叩きをやろうという計画を立てていた」

「刺殺される数時間前に彼から私の方に「ユダヤ叩きをやりますよ。今から戻ります」という電話があった」「彼はその直後に刺殺された」


●「FRIDAY」2010年12月3日号



上祐「どの説も確たる証拠があるわけではないが、私はオウム真理教による自作自演説の可能性があると感じている。教祖だった麻原はサリン事件の3日後、このような予言をしています。『神々が、この教団の弾圧は1ヶ月後に終わる(と言っている)』。この予言の1ヶ月後に刺殺事件が起きている。麻原の求心力は予言の的中などで支えられていました。
予言を実現させるために事件が起きた可能性もあると思います。事実、この事件の直後、教団に同情する声も起き、弾圧もやわらぎましたから」

自作自演だとしたら、麻原はこの予言の時点ですでに村井氏をターゲットとしていたのか。それについては上祐は次のように答えた。

「実はこの予言後、4月に入って早川(紀代秀死刑囚)が、『村井が施設に残したビニール袋が強制捜査で発見され、サリン製造の証拠となった』と麻原に告げています。このことによって村井さんが狙われた可能性も考えられます」 


●ひかりの輪公式サイトでの声明文

上祐史浩は、アレフから身を離れ、分離団体「ひかりの輪」を設立した。同サイトで、上祐はオウム事件の総括を書き込んだ。

・早川・村井の言動と、麻原のサリン事件関与の告白

上祐「なお、教団のサリン事件の関与が推察される体験としては、早川が、警察情報として、サリン事件に使われたビニールと同じものが、警察の強制捜査で教団施設内で押収された、という情報を入手し、私と村井のところに来た際の体験がある。
 その時の早川は、非常に怒っており、自分よりも教団内のステージが上である村井に対して何の遠慮も無く、絶対に嘘をつくなよという主旨のことを言った上で、村井がビニールを片付けていなかったのではないかと激しく問い詰めた。それに対して、村井が、片付けたはずだ(ないしは、片付けるように指示した)などと答えていた。
 その後、麻原自身が、私に教団のサリン事件への関与を告白した。それは、村井が4月23日に、暴力団組員に刺殺された後に、麻原に会いに行った時のことだ。その時、麻原は、「サリン事件は、教団が悪いことをやった。今回(の村井氏の刺殺)は社会が悪いことをやった」と語ったのである。
 今から思うと、これが、麻原が教団のサリン事件の関与を明言した最初と最後の機会であったが、その時までに、私は、教団の関与を推察する多くの事実を見聞きしていたので、この言葉を衝撃なく受け止めた」

・村井刺殺事件に関して

上祐「なお、よく言われることとして、村井刺殺事件は教団によるものではないか、という疑惑については、私には全く分からない。しかし、私に麻原は、教団では無く、「社会がやった」と否定した。
 さらに、村井の刺殺に社会が同情し、教団への批判が多少和らぐのではないかという期待をしつつ、「これで(村井を失ったことで)教団の科学部門は遅れるね」と加え、村井が担当していた科学技術部門が必用不可欠であったヴァジラヤーナ活動に対する村井の死の影響を大きさをにじませてもいた。
 とはいえ、私は、警察当局が、教団が関与した構図をもっていることも、同時に承知している。知り合いの警察官によると、村井刺殺の犯人が所属していた暴力団が、教団が富士宮や上九一色村の本部施設を取得する際に関係を持った不動産関係者と繋がっている暴力団と関係があるというのだ。
 そして、先ほど述べた村井のサリン事件の後処理のミス(サリン事件に用いたとされるビニールの片付けを怠ったこと)に怒った早川は、その後に、私と共に、麻原に会って、それを報告したが、その際、麻原も村井を「ちゃんと始末しておけといったんだけどな」と批判していたことを知っている。
 これ以外は、自分が知っていることはないが、私が、本件の捜査官の一人から聞いたこととしては、その前後に、最高幹部の一人が、自分の側近の部下に対して、「教団の粛正が必要だ」などと主張していたという情報があるそうだ(ただし、その幹部自身の供述ではなく、その側近の部下からという間接情報に過ぎない)」

・村井事件の暴力団説

上祐「また、この事件では、教団がイニシエーションに利用していた覚醒剤が、暴力団にも渡って、密売されていたために、教団との連携の事実が発覚することを恐れた暴力団、教団とは無関係に、自らの生き残りのため、密売の教団側の担当者であった村井を殺害したという説もある。
 いわゆる、オウムシャブと言われ、純度が低いが、その分安いものだったらしい。私自身は、教団が、自分のイニシエーションに限らず、外部に覚醒剤を密売していた話しは聞いたことがなく、確信がなく、これは、知り合いの警視庁の警察官から聞いた話である。 なお、この点に関連して、教団の覚醒剤の事件については、一連のオウム事件の裁判の進行が遅れる中で、より重要な事件の解決を優先し、検察が起訴を途中で取り下げたために、真相が裁判で解明されなかったことは残念である。
 また、仮に教団が製造した覚醒剤の密売があったとしたら、その暴力団は、オウムに協力した組織として、オウムと共に潰されることは必死な情勢だったろうから、村井を刺殺する動機は十分だろうと思う。しかし、覚醒剤の密売の教団側の担当者が村井であったという構図には疑問がある。村井は、科学技術部門の総括ではあるが、私が知る限りは、裏社会との対応をしたことがないと思う」
 
・単独犯説

上祐「それから、村井を刺殺した犯人の男性は、自分は単独犯であると主張している。私が少し前にトークショーで対談させていただいた鈴木邦男氏が、彼を直接インタビューした時の感触では、単独犯という主張に関して、嘘は言っていないと感じたという。
 最近になって、第三者の方に、彼と会う提案を戴いたが、彼が犯行を反省していることが確認できないために、お断りした。如何なる理由があろうとも、彼は、私の親友を殺した罪を犯した人物に他ならない。彼が主張するとおり、単独犯であるならば、なおさらそうである。
 それより前に、まず村井の遺族に謝罪して、賠償するべきだろう。私は、自分自身が罪を犯した人間だから、筋が通る限りは、本件の真相の解明を優先し、なるべく自分自身でも調べたいと思っているので、現状が改善されることを願っている。
 なお、参考までに、当時の教団が村井刺殺事件をどう考えたかというと、村井が中心となって更なるテロ事件を教団を起こすことを防ぐために、国家権力が村井を殺害したというものである。捜査が明らかにした教団のヴァジラヤーナ活動の実態を見れば、村井だけを殺しても、完全にテロを防ぐことが出来るかは非常に疑わしいが、教団にとって、以下に村井のヴァジラヤーナ活動での役割の大きかったかを反映したものではあるだろう」


●たかじんのそこまで言って委員会 2012/06/17 放送

出所後、再びメディアと接点を気付いた上祐は、事件の証言者として幾度もテレビに出演した。2012年6月、日本のテロ事件を題材に、「たかじんのそこまで言って委員会」が放送された。
ここで上祐は、出演者たちから犯罪者とののしられ、終始避難を浴び続ける目に遭った。

この時、出演者の一人であった勝谷誠彦が、村井秀夫刺殺事件を話題に持ち上げ、刺殺犯の名前が再びテレビに流れる事態が起きた。



勝谷「あの村井が殺されましたよね?徐という…あの在日韓国人朝鮮人に殺されました。あれも何か凄い深い闇の入り口だと思うんですけど、あの後、非常に怯えて、ヘルメットみたいな物被ってですね、されましたよね、あれは、あれは何に対して怯えていたんですか?」



上祐「いや、ぁー、単に殺害されるのではないか、私も」

勝谷「何故ですか?口封じですか?何故村井さんは殺されたと思ったんですか?そういうことが分からないと何に対して守っていいか分からないでしょ?」

上祐「いや、特にあの、理由までは考えにくい」

勝谷「いや、そこまでは喋ってないな、上祐さんは」

上祐「あの、当時は、私は、これは、一般的に、そのー、徐という人間とその上の暴力団」
勝谷「ハイ」上祐「やったと思っていました」宮嶋茂樹「うん」

上祐「今は、様々な、あの、可能性を感じてました」

勝谷「ん?今は様々な…」



辛坊治朗「そうですよね、私はあの直前に青山総本部で、村井さんと、貴方と、えー、もう一人いましたけど4人で合って話をして、んー、そのッ直後に刺されて殺された。今、今の、今、今だから思うことっておっしゃいますか」

上祐「あのーただ、すべて推測になると思うんですけど」

辛坊「わかりました、推測で結構です!」



上祐「あのときあのー村井秀夫が、まぁ第7サティアンで、そのサリンー事件をですね、あのーぉー…証拠なる可能性のあるその物を残しておいたというそういった問題があって、それが教団の中で問題になって、で、そういったことをですね、あのー、早川とかが、かなりえー、厳しく叱責してたと、いうのがあるので、まぁその延長上で、あのー、教祖の方で、えー村井をという感じに、なった可能性もあるかなぁと思いますが、すべて推測の範疇です」



宮嶋茂樹「もっと複雑でしょうね…」

勝谷「複雑よね…」

辛坊「どういってあのー、宮嶋さんの…考え…」

宮嶋「………とてもここでは言えないくらい複雑…」上祐「まぁ、捜査」宮嶋「私も怖い」

上祐「当局の方からは、まぁこういった構図があるというのは聞いてます。ただまぁ、それも構図なので証拠はないので、ちょっとお話するのは難しいかなぁと思います」



勝谷「でも皆さん日本の司法ってこんなものなんですよ?結局単独犯で終わってるでしょ?怖いですよね。背後にいるものが全然出て来ないというのは…。宮嶋も怖くて喋れない、この人は東京拘置所の麻原彰晃という世界的なスクープを撮った男ですが、最後に麻原を撮ったんだよな」

宮嶋「そうですね」

辛坊「宮嶋さん!そこまで言って怖いから喋らないはないと思いますよこの番組で!」

(ここでどっと笑い声が出る。仏頂面の上祐。)



宮嶋「…あのー、私もあの徐…さんも満期で出所して」辛坊「そうなんですよ」

宮嶋「お会いしましたけど………頑な…でしたね…」

勝谷「お前会ったん徐と!?」宮嶋「会いましたよ…」



勝谷が苦笑。宮嶋「…頑なです」

辛坊「『徐』というのは、あー村井、当時のオウムの科学技術庁長官刺殺事件の実行犯、いきなりあそこの路上で刺して、殺した男で暴力団組員、であると。でー、今のところわかっているのはそれだけ、の話です」

宮嶋「ウン……はい……あのーそこまでだと半島絡み…」辛坊「そうですね。半島絡みだよね」

宮嶋「………ロシアじゃない」」辛坊「分からない!」

松嶋初音「んふふふふふふふ…(笑)」(聴衆から笑いが出る。戸惑う宮嶋。)

宮嶋「朝鮮半島です」

辛坊「朝鮮半島ですね………が?」



松嶋「ンフ、フフフ(笑)」(再び聴衆から笑いが出る。苦笑する宮嶋。)



辛坊「断片的に話さずにもう!!だから!!とにかく!!」
(会場大爆笑。つまらなぬ表情を浮かべる上祐。)

宮嶋「でも武器だけじゃないですから……。オウムがやっていたこと、シャブ、LSD!」

(そこへ割り込むような形で上祐がコメント。)



上祐「まぁ失礼ながら私が警察、関係者の方からお聞きしている構図というのは、富士山総本部道場の方で関係のあった、教団が、あった暴力団と、それから、あのその、徐の上の暴力団には繋がりがあって、そういった教団のルートで教団の犯行ではないか というお話で、海外の勢力とはというのは関係ないと」



辛坊「関係ない?今の話でいうと関係ありそうなのはやっぱり、あの薬物の流通に関しては暴力団と繋がりがあったようで聞こえますが?」




上祐「ええ、またその第2の説ていうのがあって、その暴力団が村井と謀って、あの秘密裏に薬物を流していた、そういった暴力団、それが発覚すれば自分たちの、まぁ団体も完全にお取り潰しとなるのでそれを恐れたという二つ目の説としてある」


2012年11月25日、上祐は再び「たかじんのそこまで言って委員会」に出演。このとき勝谷氏や辛坊氏から更に痛烈な避難を浴びせられ、収録中一人寂しく退場していく様子が映し出されている。


「オウム事件17年目の告白」



2012年12月17日、上祐は著書「オウム事件17年目の告白」を出版。村井秀夫刺殺事件については、村井と暴力団の接点について否定的な見解を示した。


上祐「私は、そもそも教団が覚醒剤を密売していた話を教団内部では聞いたことがないので、この説についてはまったくわからない。しかも、村井が覚醒剤の密売を担当していたという話には疑問が残る。彼は裏社会と対応したことがなく、その時期はサリンの製造などで、極限的に多忙だったと聞いているからだ。

 最後に、村井を刺殺した犯人の男性は、自分は単独犯だと主張している。彼によると、村井でも上祐でもよかったという。
 最近、私が対談した鈴木邦男氏は彼と何度も話したが、その様子からして嘘を言っているとは思えないと語っていた。私も、直接話してみれば、感じることが何かあるかもしれない。」


それから半年後の2013年5月29日。
上祐史浩は村井刺殺犯人、徐裕行と対談を行い、共同で「終わらないオウム」を出版する。その2年後、上祐はTwitter上に次のコメントを書き込んだ。



●2015年3月27日、Twitterでの発言

あれは単独犯ですね。オウムをやっつけるという義憤によるものです。 背景にオウムも暴力団も関係していない。犯行者の徐裕行氏と会って話しましたが、 警察も徐氏が事後にお金をもらっていないことなどを確認しているそうです。





ここで一度、上祐の発言の変遷を振り返ってみよう。

①闇の勢力説(1995年・刺殺事件直後の会見)
「村井刺殺は麻原の予言に沿って起きた事件であり、事件の背後に闇の勢力がある節がある」



②オウム内部犯行説(2010年・フライデー)
「予言を実現させるためにオウム真理教が行った自作自演の可能性があると感じている」



③麻原・早川共謀説(2012年)
「警察関係者から『教団と暴力団が共謀して覚醒剤を流しており、隠蔽のため共犯者の村井を消した』という説を聞いているが、教団と裏社会の接点はないと思う。事件直前に早川紀代秀が村井を叱責しており、麻原と共謀して村井を消したのではないか」
(ただし、早川紀代秀は「村井事件を切っ掛けに、麻原の超能力を疑い始めた」と著書「私にとってオウムとは何だったのか」で語っている。)



④徐裕行単独説(2013年5月29日・Twitter)
「事件は単独犯。オウムをやっつけるという義憤によるもの。 背景にオウムも暴力団も関係していない」


ここで上祐は突然、それまで曖昧だった証言を一変させ、徐の主張を全面肯定しだした。

ところが、徐の主張自体が矛盾だらけのものだった。
徐は逮捕直後、裁判中、出所後と、時期ごとに証言を変えており、資料を比較してもまったく整合性がないのだ。

何故、上祐史浩は、徐の支離滅裂な主張を肯定するようになったのか。
そして、整合性の無い主張を「真相」と放言した男、鈴木邦男
筆者は、この部分に村井秀夫刺殺事件の闇があると感じている。


次回は事件の最大の闇、徐裕行の不気味な実像に迫る。
●4月24日・朝の会見

4月24日午前7時30分。
村井秀夫刺殺事件から夜が明け、広尾病院から南青山総本部へ戻った上祐外報部長と青山弁護士は会見を開いた。この日の会見でオウム側はカメラやマイクまで一つ一つチェックする「超厳戒態勢」ぶりであった。



上祐は淡々とした表情で、「犯行者個人も犯行の背景にあるかもしれないものにも、何ら憎しみを抱いていない」と話した。前夜の興奮状態からは一転し、悟りを開いたかのような会見だった。ただ、徹夜していたためか2人の目は赤くなり、表情も青白くなっていた。

当時行方をくらましていた麻原について質問されると、上祐は
「麻原尊師は今、弔いの瞑想に集中されている」などと話した。

「村井の最期の言葉は何か」との問いには「救急車の中で、”生命力”を強めるようにしよう”と話しかけたら、コックリとうなずいたのが最期だった」と話した。さらに「心臓マッサージを受けているのを見て、実質的には死んでいたと思う」と答えた。

事件については「個人的な感情の中では、だれかに指示されてやったのではないかと思う」と話したが、具体的には何か申し上げる時期ではないとも話した。

最後には「今回の件は教団にとっても汚点だが、警察にとってもメディアにとっても日本にとっても大きな汚点だ」と強調し、いつもの能弁な会見とはうって変わり短時間で終わりにした。



午後1時、南青山から出てきた上祐はドアから車までの約2mの距離を、10人ほどの信者に周りをグルリと囲まれながら歩いた。午後10時前に出先から戻った時も、信者のガードで上祐の姿が見えないほどだった。これまでは2、3人の信者が幹部の横を追いかける報道陣ややじ馬を遮る形だった。



同日深夜、上祐は南青山総本部でテレビ朝日「ニュースステーション」のインタビューに答え、「彼(徐裕行)がある組織から(現金の)支払いを受けていたとの情報がある。大きな力によって買われた襲撃者が襲った思う」と発言した。さらにその後、TBS「ニュース23」で築地哲也のインタビューに答え再び”謀略説”を主張。「ある大きな力が働き、その力にやられた」と”大きな組織”による”計画的殺人”と語った。「刺される10時間前、電話で村井とある大きな力に関して話した。その力が(サリン事件などの)矛盾を解くカギで、それを順を追って紹介しようとした村井がやられた。電話が盗聴された可能性もある」と主張。

「その力とは何か」という質問には「今は申し上げられない」と答えた。そして「大きな力は、わたしも、麻原尊師も確認しており、その力による謀略を発表することは可能です」と答えた。

「今、尊師が姿を現せば、殺される。例えば、我々の東京総本部には大勢のマスコミがいます。そういう状況の中、誰かが大きなバックを持って入ってきたとしても完全にノーマークだ。その大きな力は、意図的にそういう状況も作り出している。なぜそういうとその力にとって都合がいいからです」と主張した。

●4月25日の会見



4月25日。
上祐は南青山総本部で村井事件に関する会見を開き、麻原が2年前から事件を「予言していた」と強調した。

「麻原教祖はこれまで、さまざまな予言をしたそうだが、村井長官の死は予想できなかったのか」との質問に、上祐は「実は2年ほど前、尊師が私に対しノストラダムスの予言の解釈として『兄弟である2人の高弟のうち、兄の方が死ぬ』とおっしゃったことがあるのです」と話した。

兄弟である2人の高弟とは『マイトレーヤ正大師』こと上祐と『マンジュシュリー正大師』こと村井のことだと、当時、上祐は解釈したという。

麻原自身は「兄」が2人のうちどちらかは言及しなかったたというが、「私がロシアへ行くことになって、尊師は『これでお前が殺されることはないだろう』とおっしゃった。そういうこと(暗殺)があるとすれば日本だろうと。そして私がロシアから戻り、年齢的には上の村井が殺される結果になったのです」と語った。



ー教祖の容態はどうか。

上祐「ビデオやメッセージを出した時より、やや悪化して横ばいになっている。ベッドに横たわって話すことしかできない」

ー本当に(麻原は)生きているのか。

上祐「はい」(強い口調で答える)

ー上九一色村などオウム真理教対策連絡会議が、東京都にオウム真理教の解散請求を求める決議をしたが?

上祐「根拠が分からないから対応は決まっていない」

ー村井長官の死で今後科学的な疑問について科学班のTさん(土谷正実)が対応する可能性は?

上祐「私が知るかぎり、彼が全般的なことに言えることは不可能。村井に代わる人間はいないと申し上げるしかない」

ー村井長官が刺されたとき。いつもは開いている教団本部のドアが閉まっていたようだが?



「あのドアはいつも閉まっている。開いていてはだれかが入ってきてしまう」

ー犯行時のVTRを見ると、村井長官のガードの信者が別の信者を羽交い締めされているように見えたが?」







上祐「分からない。それでそういう結論を導きたいのか」

ー村井長官は救急車内で酸素マスクをつけていたのに「私は潔白だ」などと言えたのか?

上祐「同乗した救急隊員に取材して確認してくれれば分かることだ」

ーあなたの元恋人とされる都沢和子「西信徒庁」長官に拉致(らち)監禁疑惑がもたれているようだが?

上祐「人柄からしてありえない。男性だけでなく同性にも思いやりのある人。信者の間での信頼も厚い」

そして上祐は「村井が死んで、教団全般について話ができる人間がいなくなった。今後はマスメディアを通じての討論は行わない」と組織面のパワーダウンを誇示し、村井を失った”損失”の大きさを繰り返した。


村井を殺害した徐裕行については、

「(犯行動機には)2つのケースがあると思う。個人的な感情でやったか、誰かに指示されてやったかだ」としながらも

「右翼で韓国籍の人というのは理解できない状態です。背景になにか大きな力を感じる。今は具体的に何か申し上げる時期ではないが…」と背後関係を強く示唆。

しかし上祐は村井の死を悼む様子を見せず「村井はもう死んでしまったわけだし、彼(徐裕行)には愛情を持っている」と、淡々と語った。





●襲撃を予言?謎の怪文書出回る



94年9月上旬、どこからかオウムが松本サリン事件の犯人である、と名指しした文書「松本サリン事件に関する一考察」が警察、マスコミ間で出回り始めた。そして95年4月、警察庁長官狙撃事件と村井刺殺を事前に予測していたかのような怪文書が現れた。

文書によると「『オウムこそが被害者』を証明するために、(自分たちが狙われたという)既成事実を作り出すことを行っています」などと記されていたという。その上で(犯行は)オウムの人間の(マスコミへの)出演中、もしくは入り出の前後に発生する確率が非常に高い」「そして間違いなく(教団側は)『いま、我々が狙われました』と主張する」「それこそが彼らの得意とする『逆説的主張の展開』」などと述べている。

文章はワープロ打ちで計7ページだった。


●否定できない警備の甘さ

マスコミのテレビカメラをはじめ警察や市民の目の前で起こったオウム真理教最高幹部の村井秀夫の刺殺事件。今後の捜査の影響懸念に加え、現場に大勢の警察官がいながら、「なぜ事件を防げなかったのか」との疑問の声も聞かれた。

警察はオウム真理教の幹部や関係施設に、24時間態勢で要員を張り付けていた。事件が起きた東京総本部前では常に4台の車に警官が乗り、さらに6人の私服警官が警備していたという。しかし、その理由は「あくまで彼らの行動を把握するため」(警視庁警備局)としている。幹部が暴漢に警備の甘さを指摘する一部の批判に対しては「幹部が狙われるという具体的な情報はなかったし、オウム側からの警戒要請もなかった」とかわす一方、「あのようなごった返した状況では、現場に警察官がいても、被害者の間近に寄っていない限り事件を防ぐのは無理」と説明する。しかし、3月30日に起きた国松長官狙撃事件以後、個人警護はしていない幹部要員にSPを付けるなど異例の警戒態勢を敷いている。

オウム幹部に対するテロ再発防止については、とりあえず東京総本部周辺に警察官とパトカーを増やし、警備を強化する方針を決めたが、24日に開かれた政府・与党首脳会議では「重要参考人の身辺警護をすることも必要では」との意見もでた。


●南青山総本部前に不審者、街宣右翼

村井秀夫刺殺事件の翌日、それまで自由に出入りできた南青山総本部前にロープがア張られ、多数の警官が配備された。向かい側の歩道には約80人の見物人がいたが、署員らが「立ち止まらないでください」とマイクで連呼した。
今度は上祐、青山が狙われるのでは?彼らは不振な動きを見せた人物は即職質、連行するよう心がけた。



同日午前10時過ぎ、「松魂塾」と書かれた街宣車7台が現れた。

街宣車「麻原彰晃、すぐ国民の前へ出て謝罪しろ!」「出てこないなら、こっちから行くぞ!」
「上祐、青山、明日は我が身だと思え!」

同日午後1時40分、上祐が20人余の信者に囲まれ、車で総本部を出る際に、2人の男女が道路から飛び出し、近づこうとした。
男は30代中肉中背、女は20代後半。男はポケットから白いラジオのようなものを、女もポケットを探る動作をした。

警官「危ない!」「何ですか!?」

男「僕は関係ないです。通して下さい」
男は持ち物を隠すような素振りをみせた後、突然青山通りの方へ逃走した。女性も一緒に逃げ出した。2人は2、30mほど走ったがすぐに取り押さえられた。

男「私、子供が歩けないんです」

女「違うんです(泣)」



警察車両に乗せられ連行された。
2人は現場近くで照会を受けた後、すぐに解放されたという。







午後5時前、茶色のジャケットを着た40代前半の男が警戒網を破り、玄関に突入する騒ぎが起きた。
男は声明文らしきものが入った手紙二通の封筒を手に「フジテレビはいるか」などと叫んだ。
警官が取り囲むと報道陣とやじうまが殺到し、周辺はパニック状態に。

男は近くにあった自分の車に移動させられ、免許証の提示を求められた。

男「免許がなきゃいけないのか!」
警官がトランクなどを調べたが不審なものがなかったため、午後5時15分に男は放免された。


●第2の徐裕行出現!



4月27日午後8時、南青山総本部前に不審な男2人組が現れた。
片方は肌が浅黒い細身の男性。赤いトレーナーに汚いジーパン、野球帽を被っていた。
もう一人は、40代前後、蛍光色のジャンパーにジーパン姿。2人は付近の花屋で話し合った。
周辺の見物人に「今日、上祐はいるのか?」と質問した。

別の見物人には「大阪からきたんだけど上祐は中にいるのか?」としつこく質問。
「知らない」と言われると、その場を去った。見物人によると、男は関西弁みたいな話し方をしていなかったという。

午後9時、ジャンパーの男がセカンドバックから、白いテープが巻かれた刃渡り14㎝のナイフを取り出した。細身の男と顔を合わせて握手すると、「ワァー」と叫び南青山総本部に侵入した。

マスコミ「暴漢だ!」
周辺は騒然となった。

猛ダッシュでロープを飛び越えたが、ドアが施錠されていたため建物内に入れず、玄関前で取り押さえられた。目撃者によると、2人は目を赤くして酒を飲んでいたという。ジャンパー男は逮捕されたが、細身の男は行方をくらませた。



(東京スポーツ4月29日号)より出典


●村井刺殺直後の林郁男

1995年4月8日。
地下鉄サリン事件の実行犯、林郁男は石川県に逃走していたところを、警察に発見され、「ピアニスト監禁事件」等の容疑で逮捕された。



4月23日。
林は取り調べで現れた検事から「オウムの大事な人が死んだ」と告げられた。林が「麻原が死んだのか」と聞き返すと「麻原が大事な人なのか?!」と検事から怒鳴られた。村井の死を知ったのは、その翌日になってからだった。このとき林は「村井を殺したのは麻原に違いない」と感じた。

林郁男(村井は麻原のいうことならどんなことでも従う。「死ね」といわれれば、死ぬ。「オウムのためだ、死ね」といわれたのかもしれない…)

村井の死に想いを巡らせているうちに、林の頭に、ある疑念がよぎった。麻原は、捕まったものたちを修行の餌にして、操ろうとしているのではないか?麻原は私たちを使い捨てにしようとしているのではな?

そして林の脳裏にある一節が浮かんだのである。

麻原「オウムのすべてを知っているのは、私と村井だけだからな」

更に林は、村井がオウムのことを喋りすぎるという評価を受けていて、上祐らが批判しているというテレビ報道を見た時のことを思い浮かべた。


94年9月末、林はつぎのやり取りを目撃していた。
ロシア旅行の直前に、麻原が「自分は暗殺されるかもしれない」と言い出した時、その場にいたサマナのなかから「いっしょに転生して修行をつづけたいから、自殺します」という声があった。すると麻原は、「そんなことはするな」といって、村井に向かっては「あばれまくれ」といって目配せした。

思い出すうちに、林は徐々に麻原の人格を疑いはじめ、徐々に嫌悪感が強まった。

「…麻原に使い捨てにされる」

5月6日。

林郁男「私がサリンを撒きました」

警官「先生、嘘だろう!?」「誰かをかばっているの!?」

「…いいえ…私がサリンを撒きました…」

林は地下鉄サリン事件の全面自供を始めた。それまでゆっくりと崩れかけていたオウム帝国が、林の一言で急速に崩れ出した。


●村井刺殺直後の早川紀代秀

逮捕され取り調べを受けていく中で、早川紀代秀も麻原に疑念を抱え始めていた。教団にいたときには思いもよらなかったことを知らされたり、ただ一人で考えざるを得ない状況に追いやられたからだと、早川は著書「私にとってオウムとは何なのか」で証言している。村井秀夫刺殺事件が起きたとき、早川は次の証言をしている。

早川紀代秀「村井秀夫が殺されたためグル麻原の未来ビジョンのひとつが実現不可能になってしまったことから、グル麻原の現状認識や未来を見通す力に疑いを抱き始めました。

村井に関連したグル麻原の未来ヴィジョンというのは、以前、グル麻原が『今日ヴィジョンを見たが、わしと一緒にマンジュシュリー(村井)とケイマ(石井久子)がそばにいたんだが、2人ともケロイドを負っているんだよ。やっぱり核は落ちるな。2人は放射能障害を起こしていたんだよ』と言ったことを言うのですが、村井が死んでしまっては、このヴィジョンは実現するはずがありません。

日常の些細な判断ならいざ知らず、瞑想によって得られたとされるグルのヴィジョンには絶対の信頼を置いていただけに、この村井の一件は、村井が死んでしまったというショックとともに、どう説明したらいいものなのか、私には深刻な悩みをもたらしました」


●土谷正実と「村井暗殺会議」

「アサヒ芸能」(6月特大号)によれば、教団の「村井暗殺」会議をはじめて明かしたのは土谷正実だという。当局が土谷を追求したところ、早川紀代秀が逮捕される4月20日の数日前に早川本人から「村井ポア計画」を知らされたうえで、「もう段取りはついているから」といわれたという。

中2階の畳敷きの部屋だという。集った幹部は麻原を囲むようにして「蓮華座」を崩した格好で、小声でこんな会話を交えたとされる。
「ミトラ大師にとっては、致命的だ。ポアしても、それは彼にとって生まれ変わることだから…」
「教団に取っては致命的だ。ポアしても、それは彼にとって生まれ変わることだから…」

この提案を受けて麻原はしばし考えたのち、重々しく決断したという。

麻原「ポアもやむなし」

しかし、このやりとりが裁判で注目されることはなかった。


●山路徹氏の証言

村井秀夫刺殺事件後、幹部が次々と逮捕される中も山路はオウムと直接関わりながら取材を続けた。
山路氏は、幹部と接触するときは必ずアシスタントカメラマンを連れて会うよう心がけ、さらにやりとりを音声や映像にして記録に残そうと心がけた。取材を続けていくうちにオウムの担当者、相川克巳(仮名)の本性が明らかとなった。

相川「今回林(郁男)がべらべらしゃべったみたいだけどまぁインテリだから弱いっていえば弱い」

相川「ミラレパ正悟師もみんなあいつらははっきり言って使えない、正直な、あいつらいない方がやりやすい、逮捕された理由ってのが全部その…切られた、要するに最小の努力で最大の結果を出さなきゃいけないのを、最大の努力で最小の結果しか出ていないから」

相川「上祐なんかに(タントラ・ヴァジラヤーナが)分かるわけないよ、ウン…尊師、私、井上がわかると。このスタンスで一般に受け入れられるのは難しいんだよ。物凄く。」

相川「私なんかは戒律守らないし肉は食うし酒は飲む。でもタントラ・ヴァジラヤーナは戒律違反あり結果のためなら何してもいいということ。極端な話セックスしようがその女引き上げる(入信させる)ためだったらいいと。こうなるわけよ、ここを分かっていないのよあいつらは…」

「目的のためなら何でも許される」というオウムの教義。山路はオウムの本質を記録に残した。



その後も山路は相川と喫茶店で打ち合わせを続けた。席を立とうとすると、突然公安警察に囲まれた。公安警察は相川をマークしていたのだ。

Mr.サンデーの取材によれば、「山路に取材されることを相川と井上(嘉浩)が計画し、麻原の指示で動いていた。山路を取り込めばオウム真理教の広告塔として有利な報道が出来る」と公安警察は証言している。

後年オウム元幹部の野田成人氏は「APFの山路ってやつがいて、そいるの取材に付き合っている広報のサマナがタントラヴァジラヤーナの話をしゃべっちゃったらしい」
「この殺人教義隠し撮り映像が流れたのは、オウム信者にとってはショックでした」とブロブでコメントしている。



相川は警察の取り調べで「山路をしっかり取り込んだと思ったはずが自分が取り込まれていた」と答えたという。


「Mrサンデー」(3月22日放送)のVTR後、山路氏は村井刺殺やオウムとの接触について次のように話している。

宮根誠司氏「村井…幹部が刺殺されたときには、まぁ表には無数のカメラがあって山路さんは地下にいた訳ですよね」

山路「はい」

宮根「上のあの騒動って全然分かんかったですか?」

山路「全然分かんなかったですねぇ。んー。ただあそこで要するに一回、村井幹部が下に降りないと、そのー、殺人者(徐裕行)は…玄関に回れないんですよ」

宮根「そうですよね、んー」

山路「で、戻ってきた所を殺してると」

宮根「で、がちゃがちゃっていう扉を開ける音を聞いた」

山路「聞いた。で、それはいわばカギがかかっていたから開かなかったんだということを、後に表現させられた形なんです」

宮根「その前に…待たされる訳ですよね?意味もなく。で、そして病院の中にも取材カメラを入れて取材を許されると」

山路「えぇ」

宮根「これ山路さん、犯人(徐裕行)は逮捕されたんですが、もの凄く意図的なものを僕らVTR観て感じるんですがどうですか?」

山路「いや、僕自身この20年ずっとこのことについてはですね、ずっと疑問に思ってますし、まぁ後にカメラの取材やってますけれど、取材をすればするほどね、色んな証言者の、まぁ話を聞くと、やっぱりそこで僕は…まぁ非常にこれは悔しい話ですけど、利用されたなと、いうふうに思ってます」



●麻原逮捕!
地下鉄サリン事件から2ヵ月後、捜査当局は逮捕した遠藤誠一の証言から、麻原が第6サティアンの1階と2階の間の部屋にいるとの情報を掴んだ。

「明日、麻原を捕る。拳銃を携帯し、予備弾5発持っていくように」

5月16日午前5時16分。警察の先遣隊が第6サティアンに立ち入りる。午前5時30分、約350人の警察官が押し寄せてきた。電動ドアで扉をこじ開け建物内部を次々解体しながら捜査を続けた。
ところが、3時間かけても麻原の姿が見当たらない。捜査は一時中断し仕切り直しとなった。



警視庁本田署の後方要員、牛島寛昭巡査長(当時)は休憩中、ゴールデンウィークの捜査で2階と3階の間の外壁に信者がカバーのようなものをつけていたのを思い出した。「なぜ、あんなところに通気口を作るのか?」そう思って見つめていると、窓際にいた麻原の三女、アーチャリーがアッカンベーをしてきた。



牛島はその時「あそこらへんに隠し部屋でも作るんじゃないの」と冗談感覚で仲間と語っていたという。



しかし、これだけ人員を動員しても麻原が見つからない。「隠れるなら空気穴が必要。カバーは穴を隠すためでは」。

牛島は休憩時間に捜索したいと指揮官に申し出た。
サティアンに入った牛島は、通気口の経路を想像しながら進んでいくと、2階のある部屋に、少女漫画がうずたかく積まれているのを見た。

「この部屋で、3女は隠し部屋に潜む麻原と会話していたのではないか」


牛島は二階の天井を叩き壊したところ、天井裏に怪しい箱がうっすらと見えた。


「なんだあれは・・・!」

捜査員たちを呼ぶと、隠し部屋のありそうな場所の天井を叩いて調べることにした。

「コン、コン」「コン、コン」「とん、とん」

捜査関係者「!」



中は空洞だ。金槌で穴をあけてみると、中で黒いものが動いている。



警官「髪の毛のようです…いや違います!ヒゲです!ひげを生やした赤い服の男がいる!」

警官「…麻原か?」

麻原「ウィー」



警官「何やっていた?」

麻原「隠れてました」

警官「どこから入った?」

麻原「わからない」



警官「出られるのか?」

麻原「顔がデカくて出られません…」



麻原を狭い棺桶のような部屋から引きずり出した。その時、麻原は、ぶるぶると震えていた。

麻原「重くてすみません…」



麻原が隠れていた部屋は高さ60㎝、幅1m、長さ3m程度の狭い空間だった。
中から現金960万円の札束とカールとお茶、テッシュが無造作に置かれていた。オウム帝国の指導者は、部屋に寝袋とスポンジを詰め込み、怯えながら逮捕の瞬間を待ち続けたのである。



山田正治理事官「悪いところはないか?」

麻原「どこもない」



同行していた医師が健康状態を確かめようと手を取ろうとした瞬間、麻原の血相が変わった。



麻原「駄目だ! パワーが落ちる!」

山田「君のためにしているんだ」

麻原「カルマがつく!」



指揮官は、発見者の牛島氏を現場へ呼び戻すと、「牛島、手錠!」と命じた。



乗ってきたバスに手錠を忘れた牛島氏は、苦笑いする指揮官の命で、同僚から借りた手錠を麻原にかけた。







麻原(何故なんだ、ちくしょう!)



道場から出ると、信者が驚いてこっちを見ている。
麻原は慌てて背筋を伸ばした。
牛島氏「こいつ、虚勢を張っているな」

警視庁では井上幸彦警視庁総監が記者会見を開いた。



「えー、本日、午前、9時45分、オウム真理教教祖、麻原彰晃こと松本智津夫、40歳を、殺人罪及び、殺人未遂罪で逮捕致しました」


麻原を連行する牛島査員ら。当時捜査当局はガスマスクを入手するため上野の某ミリタリーショップから装備を購入していたという。この時東ドイツ軍の中古品が安価で売られており、捜査員が東独軍の帽子をかぶっているのもその経緯と思われる。



五月雨とマスメディアの中を、麻原を乗せた護送車が進んでいく。
上九一色村から離れるとき、3万人以上の信者を従えた男にかつての覇気は既になく、その表情は亡霊のように変わり果てていた。