村井秀夫刺殺事件の真相を追って -32ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●事件発生までの徐の足取り



社会と決別し、朝鮮ヤクザとなった徐裕行。
準構成員でありながら山口組本部の駐車当番を経験したり、関係の深い組の若頭の葬儀に出席したりと、羽根組との関係は稀薄ではなかった。法律を犯してでも、偽装結婚や闇金業者をして金儲けを狙っていた徐は、更なる大ばくちに出る。それは村井秀夫を殺害することだった。


4月20日。
午前中、高英雄から「若頭(上峯)に電話したか。電話した方がいいぞ」と言われ、友人の携帯で上峯に連絡する。上峯から「昼頃もう一度電話しろ。このことは言うな」と命じられる。

午前11時
仲間と3人で車に乗って祖師谷に出た徐は、途中で食事を済ませ、午前0時30分頃、六本木のロアビル内の公衆電話から再び、上峯の携帯電話にかけると「目黒に来られるか。飯でも食べよう」と言われ、タクシーで目黒駅に向かった。
 上峯とMの3人で落ち合い、食事をすることになったが、レストランの入り口付近で「おまえの家族や親類、友人にオウムの関係者はいるか」と聞かれ、「いえ、いません」と答える。

食事が終わって、Mが登記所に行っている間、目黒区内のホテルの駐車場の車内で、上峯が徐に問いてきた。

上峯「おまえオウムをどう思う」

「オウムの幹部のうち上祐、青山、村井のうち誰か一人をやれ」

「組のためにやるんだ。組のためにならなかったら、おれがお前にこんなことやらせるわけないだろう」

徐「わかりました」

上峯「包丁で殺れ。殺ったら、その場で逮捕されろ。そして、右翼神州士衛館の者だと名乗れ」

「マハーポーシャビルを見ておけ。後でオウムの施設の一覧表が載っている週刊誌を渡す」

犯行の動機について上峯は「オウムのような奴らがいては、日本の治安は保てない」と右翼的な主張をするよう指示した。

そして、その場で足代として2、3万円を受け取った徐に上峯は「今日から地下に潜れ。行って様子を見ておけ。定期連絡は入れなくていい」とアドバイスしたという。そのときに言われたのが「ある人がおまえを期待している」という言葉だった。徐は取り調べで”ある人”を「ウチの組長(羽根恒夫)だと思っていた」と供述している。


午後3時頃
別れ際に「これを読んでおけ」と手渡されたのが、オウム事件の記事が載っている週刊誌3冊。上峯はその時、右翼団体「神州士衛館」の所在地を教えた。

徐「見返りは、普通なら金バッジですけど、そこまでいかなくても、それなりの受け皿はあると思っていた。シノギも出来るようになるし、何らかの生活の糧を得られると思う」
逮捕後の取り調べで、徐はこう供述している。


4月21日
午前10時頃
起床した徐は、週刊誌に掲載された「オウム真理教関係一覧表」を切り取って、ジーンズのポケットに入れ、渋谷に向かう。その後、道玄坂でラーメンを食べ、ヘアーサロンにも立ち寄った後、第一勧業銀行渋谷支店のキャッシュコーナーで4万円を引き出す。

午後3時半
一目父母に会っておこうと思い、実家に帰ると父親がいたので、夕方6時頃から焼き肉を食べながらテレビを見ていると、南青山のオウム東京総本部に上祐が射ると、南青山のオウム東京総本部に上祐がいるという報道をしていた。徐はテレビを観ながら「あれはひどいよな」と話したという。食事後、近所の銭湯に行き、帰宅すると母や姉も帰宅していた。

午後9時半頃
公衆電話から上峯の携帯電話に連絡して「今、上祐が本部ビルにいるので、これから行ってもいいですか」と尋ねたが、上峯の返事は「今日はまずい。あしたの夕方また電話しろ」というものだったとされる。


4月22日
午前11時半頃、アタッシュケースを持って実家を出た徐は、バス停からタクシーに乗り、西新井駅に向かう途中の金物屋で、牛刀を5,000円で購入。そして、地下鉄日比谷線も西新井から恵比寿でJRに乗り換え、渋谷に向かう。さらに、地下鉄銀座線の表参道駅で下車し、歩いてオウムの東京総本部へ向かう。





午後1時
南青山総本部へ到着。周囲を下見し、ビルの位置などを確認する。その後、タクシーを渋谷の宮益坂付近まで走らせ、道玄坂の喫茶店でアイスミルクを注文。しばらくして暇つぶしにパチンコ店に入る。


午後6時半頃
他に行く場所がないため再び喫茶店に入り上峯に連絡。



午後8時頃
渋谷駅のハチ公前で上峯と待ち合わせる。その場で徐は上峯から4、5万円を受け取る。そして、2人でタクシーに乗り、六本木の日本料理店に入店。ステーキセットを注文した。

2人は食事をしながら、村井殺害計画の話を始めた。

上峯「いつ実行するのか」

徐「一日でも早く決行したい」

上峯「何か心配事でもあるのか。後のことは心配するな。○○に連絡しろ」

徐「わかりました」

「弁護士はつけてやる。○○なんかじゃない。もっとすごい弁護士を頼んである」

上峯は紙ナプキンを取り出すと、「神州士衛館・代表、会計……」と構成員の名前を書き残した。上峯はテーブル上に指を使って「殺」と書き「警察ではこれがなかったといえ」と、殺意を否認して量刑を軽くする術を徐に伝授した。紙ナプキンは上峯が灰皿の上で焼き、ウーロンハイをかけて火を消した。


●徐裕行の淫らな夜 ~謎の風俗嬢~





午後9時半。
上峯と別れた徐は、タクシーで渋谷に向かい、公衆電話のボックスからホテトル嬢のチラシを拾った。娑婆と別れる前に、女と一発楽しもうというわけである。

警察の調べによれば、徐がラブホテルへ入った経緯は「一人で寂しかったので……」と供述している。

渋谷区円山町へ向かった徐は、独りでラブホテルにチェックインした。土曜日だったこともあり、この日は泊まり目当てのカップルで賑わっていた。(高沢皓司氏は、徐は渋谷区道玄坂のラブホテルに入ったとしている。)


(徐が宿泊したラブホテルの電話)


午後10時50分頃、徐裕行とホテトル嬢が合流。






午後11時50分頃、ホテトル嬢が退出。一瞬の快楽であった。
このホテトル嬢については謎が多い。

「FRIDAY SPECIAL」(95年6月1日増刊号)では徐はこの風俗嬢の常連だったと報じている。
風俗関係者「徐容疑者は月に2~3回この女と会ってたが金払いが悪く、いつも値切っていた。それがその日は”料金”2万5千円に加えてチップまで渡したそうだ」


しかし、週刊ポストや中日新聞は全く異なった情報を記載している。徐と宿泊したのはホテトル嬢ではなく、ホステスだというのだ。


「週刊ポスト」(95年5月26日)
捜査関係者「あれはホテトル嬢ではない。あの日、徐容疑者と同宿していたのは、20歳前後のアルバイト・ホステスをしている女だよ。しかも、先にホテルに入って徐容疑者を呼び出したのは、女のほうなんだ。2人は以前から面識があったようだ。逮捕時、徐容疑者は100万円に少し足りないくらいの現金を持っていた。この大金の出所が、同宿していた女だと、みられている」


中日新聞(95年5月12日朝刊)ではこんな報道がされている。

『報酬?100万円受け取る 徐容疑者 犯行前日、女性から』
 オウム真理教の村井秀夫「科技相」刺殺事件で、殺人容疑で逮捕された徐裕行容疑者(29)が事件の前日、宿泊した東京都内のホテルで、顔見知りのホステスから現金約100万円を受け取っていたことが11日、警視庁など捜査当局の調べで分かった。
 警視庁は、この現金が村井氏殺害の報酬の一部として、犯行現場までの”足代”代わりに渡された可能性が高いとみて徐容疑者を追及、共犯容疑で逮捕した指定暴力団山口組系羽根組幹部上峯賢司容疑者(47)との関連を調べている。
 調べでは、徐容疑者は犯行前日の4月22日夜、渋谷区内のホテルに宿泊。ホテル内で、都内の飲食店ホステスと合流し、客室内でこのホステスから現金約100万円を受け取った。警視庁は、この現金は殺害を指示した暴力団などの組織・団体から村井氏殺害の報酬の一部として支払われた疑いもあるとしている。


なんと同宿していた女が、徐に100万円を渡していたというのだ。「FRIDAY」とは正反対の報道をしているため、当時情報が錯乱していたことがうかがえる。


さらに、「週刊現代」(95年8月12日)では不気味な怪情報も流れた。

「徐が犯行当日、渋谷のホテルで会ったという女の弟がYという男で、これも主体思想研究会の幹部で、行動隊長的存在だと聞いている」

残念なことにYという人物が何者なのか、情報筋が明記されておらず、曖昧な記述で片付けられている。さらに執筆者の名前も記載されていないので信憑性は不明である。

ただし、もしYが実在の人物だという確証があるならば、このホテトル嬢も在日闇社会の関係者であることが考えられる。

かつて徐は、父親から「日本人とは結婚するな」と躾けられていたそうだが、この時同宿した女性は在日朝鮮人だったのだろうか。

結局、メディアは女性の職業や国籍を明確に報じないまま真相は闇に葬られた。


2015年に出版された書籍「サリン それぞれの証」(木村晋介 著)では、徐裕行のインタビューが掲載されている。文中で徐は次の証言をしている。

徐裕行「予約をとってあった渋谷にあるホテルに行き、宿泊しました。このホテルを選んだのは、もちろんオウム真理教の青山本部に近いからです」

ここで徐は”ホテトル嬢”の言及を端折り、暗殺者としての自分を強調してている。

「俺のコードネームはデカイマラ」と猥談を楽しんだり、Facebookに性的な動画を転載するくらい下ネタ好きな徐が、なぜホテトル嬢の話題を意図的に避ける必要があるのだろうか。


村井事件を紐解くためにも、ホテトル嬢の謎を明らかにすることが解決の一歩となるだろう。
●中田清秀

徐裕行が所属していた羽根組は、山口組と深い関係にある暴力団である。
そして、山口組構成員の中にもオウム真理教の幹部が存在した。



ーー「オウムには、穏健派も武闘派もありません。すべて一様です。わたしなどは、いってみれば、全宇宙オウム連合麻原一家のただの若い衆です」オウム真理教建設省・中田清秀ーー



中田清秀は1947年11月3日、名古屋市北区で生まれた。
「日刊スポーツ」(95年6月29日朝刊)、「サンデー毎日」(95年5月14日)より

中学2年のときに父親が銭湯の事業に失敗し、各地を転々としながら貧しい生活を送った。
北海道のアパートで一人暮らしをはじめた中田は、そこで暮らしていた暴力団組員の影響を受け、暴力団事務所に出入りするようになった。

最初に飛び込んだのは在日系暴力団柳川組。
初代組長は梁元錫(通名:柳川次郎)、2代目は康東華(通名:谷川康太郎)である。この暴力団は終戦直後在日愚連隊として闇市でトラブルを繰り返し”殺しの軍団”と呼ばれた。

この実力を認めた山口組三代目組長・田岡一雄は、柳川組を傘下組織に入れ、日本全国へ勢力拡大をはかっている。田岡一雄が闇市で暴れる在日朝鮮人を取り締ったという美談を未だに信じる者も多いが、実際は虚像に過ぎず脚色である。

在日闇社会に入った中田は、そこで高利金融や土建業をシノギとしながら修行を積んだ。柳川組解散後には、小車誠会清田会の会長代行となり、秀政一家を率いるまでになった。

「いつもは『ヒデ』と呼ばれ、人付き合いもいいんだけど『俺はいつ死んだっていいんだ』と言うのが口癖で、一度思い込むと何をやるかわからんところもあった」(中田を幼少から知る暴力団関係者)

「10メートル先の一斗缶に5連発で5発とも命中させた」

けんか強さと短銃の腕には定評があったが、1984年に銃刀法違反で逮捕され1987年まで広島刑務所に服役した。


●中田のオウム入信



出所後の1988年、中田は神奈川県丹沢の集中セミナーに参加し、オウムへ入信。

「マハーヤーナ」(1988 NO.10)によれば、中田の妻は熱心な阿含宗信者であり当初入信に反対したとされるが、「日刊スポーツ」(95年6月29日)では先に入信した妻が差し入れた麻原の著作を読み、教団に入信したという。

中田と親しかった元信者「四人の子供のうち、下の二人が目が悪かったことに本人が悩んでて、新興宗教に関心のあった妻にオウムの話を聞いて、興味を持ったそうです」「サンデー毎日」(95年5月14日)

繁華街で布教のビラをまくなど、中田の熱心な布教活動を見て暴力団は煙たがるようになったという。そして組幹部は中田に「組をとるか、オウムをとるか」と迫った。中田は迷わずオウムを選び組を破門された。この時までに中田は前科9犯を犯していた。

90年3月30日に出家。ホーリーネームは「ジョーティス・パタトヴァチャ・ウパスータカ」。名古屋の実家の借地権や北海道・小樽の所有地を寄贈。時価4000万円の横山大観の絵を3000万円で売り払って、その金も教団に布施した。

中田は早川紀代秀の下、建設省の幹部として熊本県波野村や山梨県上九一色村の土地購入に尽力し、波野村から和解金9億2000万円の和解金取得の立役者となった。波野村に凱旋右翼が殴り込むと、中田は「殺すぞ!」と大声で怒鳴り返したという。

出家してしばらくは音信が途絶えてたが、一年半程してから、ときどき名古屋の知人たちのところに顔を出すようになった。93年頃に新宿でばったり中田に会った暴力団関係者は、中田のおごりでクラブを2軒はしごした。

「彼は『オウムの特攻隊長をやっている』と話していた。『シノギはどうしているんだ』と聞くと、『教団から月100万くらいもらっている。あんたも入らないか』と誘われた」(暴力団関係者)


●オウム真理教、白川郷へ進出

1994年秋。
早川紀代秀と中田清秀は飛騨高山の村を訪れた。白川郷の合掌造りが点在するこの村で、2人は教団用の土地取得を目論んだ。岐阜県飛騨高山の30万平方メートルに及ぶ山林に、オウム帝国が出来上がる計画である。その広さは上九一色村の所有地の7倍にあたる。

「彼らは真言宗の宗教法人と名乗り、本部移転のために土地を探しているんだと言って、何人もの地主を回っていました」(地元の不動産関係者)

地元住民によれば当時、中田は「ここではウラン採掘ができる」と語っていたという。結果的にはサリン事件で買収計画は頓挫したが、警察によれば、オウムはこの地を山城に見立て「オウム城」を築き上げようとしていたという。


94年11月19日。
中田は静岡県風金町の路上で電気工事業者(当時47)に「大手住宅メーカーから直接下請けができるようにしてやる」と持ちかけ断られたことに難癖をつけ、「このままじゃ済まさんぞ、足代を出せ」と20万円を脅し取った。

95年1月から3月にかけては、愛知県の知人に拳銃やダイナマイト入手の依頼をしていたとされる。


●露天商・中田清秀

95年2月、新宿・歌舞伎町のアルタ横。
新宿通りに面した歩道上で、中田は若い女性信者を勧誘しようと露天を開いた。
質素な屋台には、看板に「コンピューター占い」とだけ書かれている。周囲は青いビニールひもで張り巡らされていた。

中田「お客さん、やってかない?」

サングラス姿の中田は、若い女性に次々と声をかけた。
1回300円。手を乗せると占いがプリントアウトされる簡単なものだった。
コンピューター手相占いは90年代初頭に、新宿、渋谷や銀座の歩行者天国などで10代の女性を中心に流行していた。中田はそこに着目したのだが、この頃までにブームはすっかり下火となっていた。

結局は失敗し、中田は1ヵ月で店を閉めた。

近所の商店主「あの風貌ではどう見てもミスマッチ。客の入りはサッパリだった」

近くのOL(24) 「占いに興味ないし、怖かったので素通りした。テレビを観ていてソックリだと思ったが、やはりあの人だったんですね」

1995年4月13日。



この日、中田は午前4時過ぎからフジテレビ系「おはよう!ナイスデイ」のVTR取材に応じた後、六本木に向かい、午後2時からテレビ朝日のワイドショー「パワーワイド」に村井、上祐らと共に出演した。その直後に局の地下駐車場で任意同行を求められ、脱会信者を連れ戻す際に恐喝したとして、恐喝容疑で麻布警察署に逮捕された。



逮捕後、中田はヒゲをそり落としヤクザ特有の精悍さを失った。さっぱりしていたスキンヘッドも側頭部には毛がはえ、落ち武者のような外見になってしまった。

「私は尊師が好きだ。尊師を主として尊敬してきた。悲しくてたまらない」
中田は大粒の涙をぽろぽろ流して男泣きに泣いたという。

獄中生活では自分の二男に以下の手紙を渡している。

中田「頭の毛がなくなりました。今度来るまでにショートかつらを買ってください」

これを見た取調官は「獄中でショートカットのかつらをかぶってどうするんだ」と首を傾げた。




山口組の「オウム通達」

4月14日。
「緊急通達」と題する一枚の文書が広域指定暴力団「山口組」総本部(神戸市)から、全国の傘下団体にファックスで送信された。

<現在騒がれている、オウム真理教の件について>
 
と記されたその文書の指示内容は、以下のようなものだった。

一、山口組傘下団体全員のオウム真理教入信者の調査をせよ。

二、もし組員の入信者が居る場合 オウム真理教を脱退するか、山口組より除籍するか、明確にせよ。

三、万一、山口組傘下組員のなかに、現在、もしくは過去に、入信者が居た場合は速やかにブロック長に報告せよ。


「その文書が届いたのは、当日の夕方頃ですわ。現在では私らヤクザも何かあると、総本部からファックスで緊急通達が送られてくるのは珍しいことじゃない。最近では、神戸大震災の時にも”ボランティア活動は個人的にやらないで窓口は総本部一本に絞るように”という通達がありました。しかし、今回のような内容は前代未聞やね。正直言って、ここまでやるか、と思いました」(山口組関係者)

 オウム信者の中に、山口組系の元暴力団員がいることはかねて知られていた。

4月12日に大阪府内で元組員の秦野信一(当時45)が逮捕。
続いて、13日には元組長でオウム「実行部隊」幹部の中田清秀が都内で逮捕された。

(山口組総本部関係者)「ウチとしても、これだけオウムが世間で騒がれている以上、それに絡んで組の名前が出るとイメージが悪い。この際、調査をして、関わりがないことをハッキリさせたいということで、通達を出したんです」

 もともと、山口組では中田は8年前に破門、秦野は5年前に絶縁という形で組とは縁を切った人間という認識だった。

「しかし、オウムと山口組との関係が取沙汰され、渡辺芳則・五代目組長以下、上層部もかなり神経質になっていたことは事実です。実際、今回も緊急通達に先立つ4月5日、全国123の直系組織組長を集めて開かれた『定例会』の席上でも、オウム真理教と名指しはしませんでしたが”新興宗教とは関わりを持つな”という指令が出されていましたからね」(暴力団担当記者)



●ポケベルで招集

相次ぐ元組員の逮捕劇。1月に阪神淡路大震災の炊き出しで稼いだ得点を失っては一大事とばかりに「緊急通達」 発令となった。

 当時、山口組の構成員は当時全国で約2万3000人。ファックスを受信した組長たちは、どう対応したのか。

「今回の通達は、異例であると同時に、その文面から見ても、総本部のかなり強い意思が読み取れた。これは、もしオウムの信者が居て、それを処分できんようだったら、お前が組を辞めろ、ということです。ですから、ウチでも百人を超える組員を、さっそくポケベルで呼び出して、調査を開始したんです」(山口組関係者)

「その結果、本人ばかりでなく、家族、親戚も含めて、幸いオウムに入信している者はいなかった。そこで翌日の15日昼までには、さっそくブロック長にその報告を上げました。そこら辺は、私らヤクザは対応が早いですからね」

 調査はすぐに完了したという。そして

「秦野、中田以外には元組員を含めて山口組にオウム信者はいない」(山口組総本部)

と、山口組は公式見解を示した。

しかし、メディアの間である噂が流れた。
静岡県を拠点にする山口組直系の有力団体が、オウム真理教と関わっているー。

「週刊新潮」(4月27日号)では以下の情報が載っている。

「オウムと暴力団をめぐっては、山口組傘下のある組が土地取引を通じて、密接に関わっていると見られている。坂本弁護士拉致事件でも、実行犯の一人は暴力団組員といわれており、山口組もまだまだ安心できないのではあにでしょうか。ましてや、中田らのように元組員の信者となるといくら通達を出しても、通り一遍のことでは、調べようがありません。今回の調査結果も、どこまで信用していいものか甚だ疑問ですね」 (暴力団に詳しいあるジャーナリスト)

このジャーナリスト名前は伏せられており、情報の出所を確認することができない。
坂本弁事件では、主犯の他に暴力団の存在や別働隊の存在がささやかれていた。だが根拠が乏しく、犯行はオウムの犯行ということで決着した。しかし、オウムと土地取引をしていた暴力団は実在した。そして、この暴力団が、村井秀夫刺殺事件のカギを握る存在であり、徐裕行の受取皿となっていたのである。
●羽根組構成員




羽根恒夫(羽根悪美)
1951年8月4日生。羽根組組長。

小柄な体格で普段は物静かな紳士のようだったとされるが、怒り出したら誰にも手をつけられないほどの激情家だったという。妻は在日朝鮮人で宝石の事業をしていた。

山口組二次団体・中西組で修行を積む。
1975年8月23日、羽根は”第1次大阪戦争”に参加。敵対する松田組組長・樫忠義組長宅(大阪市住吉区)に銃弾三発を撃ち込む。現場はパトカーと警官5人が警備しており、タクシーで乗りこみ、抑止をふりきって発砲した。
この行為が山口組組長・田岡一雄から気に入られ、羽根”悪美”の渡世名を得た。

「悪」というのは、悪いということではなく、昔からよくいわれる「強くて猛々しい」という意味から由来している。一説によれば田岡組長が命名したともいわれる。

「人をめったに褒めない親分(田岡)が”根性のある男や”と、えらい褒めはった。翌年7月に、親分は隊員しやはったんやが、すぐに自分の手元に置いて身の回りの世話をさせはるほどのお気に入りやった。親分の気まぐれ人事やと陰口を叩くものもいてたけど、羽根さんという人は、一を聞いたら十を悟るというか、親分が”おーい”と呼ばはっただけで、薬なのか、電話するのか、何を望んだはるか、すぐにわかってた」(山口組OB)

「三代目(田岡組長)が『おーい』と呼んだだけで何をしてほしいかが分かるし。どんな雑用でも嫌がらずにこなすので、姉さん(田岡夫人)にも可愛がられとった。親分が車に乗る時は必ず助手席に座り、部屋で寝ていれば、隣の廊下に影のように従う。文句も自慢も口にせず、いつでも黙って弾避けになる覚悟ができとった人や」(山口組関係者)

1976年10月、25歳の若さで若直(田岡から直接杯を貰うこと)に取り立てられて組員なしの羽根組組長を名乗り、田岡のボディーガード兼個人秘書となる。122人の直系組員のうち、最高幹部と舎弟を除いた一般の若中で、羽根組長の席次は第2位であった。

当時マスコミはその若さから「山口組の沖田総司」と呼んだ。

1978年7月11日夜、京都・三条のナイトクラブ『ベラミ』で、田岡一雄組長が、村田組の”大日本正義団”構成員、鳴海清に狙撃され重傷を負った。弾が数ミリずれていれば即死という事態だった。この時羽根は勘定を払おうとレジに行っていたため、三代目を守ることができず酷く悔やんだ末に「腹を切ってお詫びする」と割腹自殺を申し込んだとされる。(田岡に電話を頼まれ席を外していた、との説もある)


8月中旬、羽根は行方をくらませる。
9月18日、大阪市阿倍野区の路上で羽根悪美が松田組大日本正義団幹部金築和一を銃撃し逃走。金築は軽傷を負った。
9月30日、大阪府警は銃刀法違反で羽根を指名手配した。
10月25日、羽根はNHK京都放送局に電話をかける奇行を行う。

11月26日11時頃、神戸市垂水区大塚台56の路上で、30代ぐらいの男が前後不覚に酔って倒れているのを通行人が見つけ、兵庫県玉津署下津橋派出所へ届けた。

男は薄汚れたジーンズの上下に薄紫色のサングラス、髪ぼうぼうで、浮浪者同然の姿だった。



羽根恒夫「オレは羽根だ」

不気味な表情でニヤニヤ笑う男。指紋照合の結果、男が羽根恒夫であることが確認され、27日午前9時45分、銃刀法違反で緊急逮捕した。同11時大阪曽根崎署に護送し、府警捜査四課で”大阪戦争”の取り調べを始めた。



羽根は、大日本正義団幹部の殺人未遂容疑などで逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。福島刑務所から出所したのは89年7月21日。渡邊5代目の継承式の翌日だった。
かつて世話になった3代目組長夫妻や若頭の山本健一は病死していた。

羽根「親分(渡邊)は、三代目に勝るとも劣らない素晴らしい人やと聞いてます。この命、親分に捧げて生きていきます」

羽根は渡邊に忠誠を誓った。しかし、2日後の7月23日、3代目組長九回忌で早朝からただ一人、3代目組長夫妻の墓前でひれ伏し、悔し涙に暮れながら墓石を水拭きしていたという。

11月、羽根組構成員が殺害され、山口組東北進出のきっかけとなった「みちのく抗争」に参加。


(1995年3月5日、定例会の羽根)

その後暴対法の影響で羽根は「平和共存路線」へ転換。刑務所内で知り合った仲間を集め、三重県伊勢市に組を移す。当時伊勢市内には山口組直系の組が3つ存在していたため、もっぱら県外の関西や関東の都市部で活動した。組員は当初三重県出身の構成員がいたが、その後標準語を話す構成員が増えていき、関東出身の構成員が増えたと思われる。また在日朝鮮人が多かった。羽根組の正式組員は9〜10名、準構成員を含めると32人から50人程だった。

95年、阪神淡路大震災の救援活動に徐裕行とともに参加。渡邊組長から高く評価されたという。

羽根のエピソードは西岡琢也氏の手で映画化され、1991年に「獅子王たちの夏」が制作されている。なお映画の監修は野村秋介が関わっていた。


参考文献:週刊大衆(95年6月5日)・「シナリオ」(85年10月号)・溝口敦 著 「カネと暴力と五代目山口組 」・一橋文哉
著「国家の闇 日本人と犯罪<蠢動する巨悪>」


●小坂善昭
副組長。事件では影が薄かったためか、マスコミに報道されなかった。




●上峯憲司
1947年鹿児島県生まれ。事件当時47。
羽根組若頭。村井秀夫刺殺事件のキーマン。「上峰」と表記されることが多い。事件当時は羽根組のNo.2と報じられた。大学中退。95年当時の住所は伊勢市曽根2−2だった。

周囲からの印象は「暗いというか無口」「おとなしげで普通の堅気風に見える」

「すれ違えば『こんにちは』くらいの挨拶はするし、格好も一般的」 「普通のおじさんという印象」 だったという。

宮崎県内で焼肉店やカラオケ店を経営した後、1983年ごろから暴力団と親交を持ち始める。
宮崎市の右翼団体「九州雷鳴社」で似非右翼活動の経験を積む。神奈川県川崎市に移り住んだ後、1993年10月ごろから三重県の羽根組に所属した。

大阪在住の”右翼”「私は以前、上峯夫婦に焼き肉屋をやらせていた。彼の話だと、シャブでパクられたことはあるけど執行猶予がついたといっていました。しかし、当時は、おとなしげで普通の堅気風に見えました。ただ、商売がうまくいってなくて借金を抱えていた。自分一人で怪文書みたいなものを作って、ゆすり屋みたいなことをやっていたこともある。どこかの信用金庫かソープランドに融資しているというネタを仕入れては、法務局で事細かに調べ、信金をゆすったりしていました。私が、東京の大物右翼を紹介したんですが、この時には、ずいぶん喜んでいましたよ」


また、矢嶋慎一氏が宮崎市内の某政治結社を取材したところ、前会長から次のような話を聞いている。

「上峯は鹿児島県のレベルの高い高等学校を卒業して上京し、市立大学に進んだ頭のよい男でした。私の政治結社に所属して数ヶ月もすると、上峯はさすがに頭が切れるところを発揮して、たちまちのうちに会長代行というナンバー2のポジションに位置するようになるのです。

上峯という男は常日頃から勉強熱心で、街宣活動などに行く前などは自ら文章を作成し、街宣車に乗るやマイクを片手に自ら作成したその文章を立派に読み上げては、政治結社としての務めたる民族運動に頑張っておりました。なにかとものを書くのが好きらしく、よく独りで文章を書いておりました。

性格はおとなしくて義理がたく、他人に迷惑をかけることなどもない真面目な男でした。私のところには約一年ほどおりましたが、私に考えるところがあり、上峯1人でなく所属していた者すべてを脱会させておりました。

上峯という男は家族想いで、いつでも家族を大切にしておりました。そんな男が今回のような事件を起こすとは信じられないし信じたくない。宮崎にいた頃の上峯は本当にいい奴でした。

ただ、宮崎の暴力団組員数人と付き合いがあり金額は不明ながら彼らから借金をしていて、それがために宮崎を離れて他の土地へ行かなくてはならないという事情があった。

上峰が宮崎を離れて1年ぐらい経った頃に電話があり、今はある所にいてヤクザをやっており、
そこの組長さんから見込まれて頭代行という立場におりますと言ってきた。頭のよい上峯のことだから、ヤクザになっても出世が早いなぁと思ったもんです」


ここで矢嶋氏は、前会長が上峯の人間性について褒める言葉はあっても貶す言葉はないことに違和感を感じている。そこで他の上峯の知人に接触してみたところ、こんな話がでてきた。


宮崎市内の知人「政治結社を離れた上峯を、私のところで少しの間面倒を見てやってたが、あまりよい人間とは言えない。まして上峯は、地元の暴力団組員から借金をして、その借金を返済できなくなったことで宮崎から姿を消してしまった(略)」

東京の知人「上峯は、羽根組に所属して2年しか経っていない。いわばヤクザになってからのキャリアはわずか2年。本来ならチンピラでしかないんです。徐と言えば、やはり羽根組組員となってわずかに1年。上峯がどのような関係から羽根組に入ったのかと言えば、上峯が直接に元羽根組員や組員を知っていたわけではなくて、大分県でヤクザをしていた男の関係筋から羽根組組員となったんです。この頃の羽根組は組員も少なく、そんなところから、頭の回転が早かった上峯が若頭代行というポストに座り、アッという間にナンバー2になってしまった」

上峯は頭がよく切れたこと、羽根組組員が少なかったこと、似非右翼活動に詳しいことから組幹部に抜擢された。ヤクザの中ではおとなしいといわれていた上峯であったが、矢嶋氏によるとこんな逸話がある。

「あるとき、羽根組組員が組を脱退したところ、上峯が若い衆を連れてその組員の自宅に深夜押しかけました。脱退した組員はたまたま家を留守にしており、家には妻子しかいなかったにもかかわらず、上峯らは家のドアを叩いたり大声を発して家族を脅したそうです。ふつうのヤクザなら、男の留守宅に深夜数人で押しかけて騒ぐなどは絶対にやりません。妻子らにはなんの関係もないからです」「宝島30」(96年1月号)より抜粋

上峯は神州士衛館とは別に、羽根組内に数人で構成するグループ「清流会」を組織しており、徐裕行、高英雄もこの組織に加わっていた。週刊朝日の報道によると、徐裕行からは「ミネさん」と呼ばれていた。


●畑野志朗
若頭補佐。同一人物かは不明だが、上峯の部下で自称・羽根組No.3の幹部がテレビに登場し、事件の裏事情を知っていると主張。物議を醸した。(番組放送中、羽根恒夫が「あれはうちの組員ではない」とクレームを入れ大騒ぎになった。)


●G
在日朝鮮人。既婚者。徐を羽根組に引き入れた一人。羽根組の東京責任者。
徐裕行とともに宅配ヘルス業を運営していた。妻も徐と交友関係があり、度々世話になったという。
事件後、G宅も捜査関係者が立ち入った。




●高英雄(通名:高山英雄)
在日朝鮮人。事件当時30。徐裕行を羽根組に引き入れた張本人である。東京朝鮮第四初中級学校で徐裕行と親しくなり、交友関係を結ぶ。その後朝鮮高校へ進学、朝鮮ヤクザに加わり闇金業者となる。「現代コリア」(95年6月号)によれば金という羽根組員と北朝鮮へ何度も訪問していたとされる。事件後、ある問題行動に出る。(画像は村井事件の漫画より引用)


●児玉康夫(仮名。当時28)
自称元組員。「週刊新潮」(1995年6月15日号)に登場、事件の”背後関係”を語る。


●柳日福(当時30)
在日朝鮮人。渋谷のマンションを不法占拠していた。


●柳日竜(通名:柳川竜星、当時22)
在日朝鮮人。高英雄が経営する金融業の仕事を徐裕行とともに手伝い、女性を恐喝をしていた。


●石井悟
羽根組員。江東区枝川1在住。柳日福と共謀して渋谷のマンションを不法占拠した。


●清水一彦
”右翼”団体、九州雷鳴社関係者。上峯と交流を持つ。村井刺殺事件直後、上峯から弁護士についての相談を受けたとされる。


●株式会社羽根

羽根組の表向きの名称。


(1995年当時の羽根組事務所。)


(2016年現在の羽根組事務所。)



羽根組所在地。2016年の時点で残存。



●神州士衛館

神州士衛館は94年10月3日、上峯と米倉雅典が三重県選挙管理委員会を通じて自治大臣に政治団体の届け出を提出し、結成された似非右翼団体である。所在地は伊勢市船江町一丁目。

メンバー

神州士衛館代表–藤田善勝(松坂市在住、当時38)
伊勢湾水産代表・会計責任者–村田(伊勢市在住、当時27)
会計者代行–米倉雅典(伊勢市馬瀬町在住、当時25)
徐裕行(世田谷区祖師谷3丁目在住、当時29)



設立届に添付されていた規約は以下の通り。

「第2条(目的)本会は一、天皇は我々民族の心であり民族の理念である。(中略)一、民族を混迷にまきもむ政界、官界、財界の腐敗を糾す。以上を啓蒙していく事を目的とす(攻略)」



事務所は三重県伊勢市船江1丁目の住宅街にあり、鉄骨2階建て家屋。1990年までは大衆浴場だったが、羽根組が神戸市内の会社から建物全体を借り、1階を羽根組が運営する水産会社として、2階は羽根組の宿泊施設に利用した。建物は団体名を記した看板はなく、シラスの仲介業として看板を掲げていた。

三重県警の調べによると、事務所の所有者は神戸市内に本社がある寝具、健康器具、印鑑等の販売会社と偽装されていた。





伊勢市に来た上峯はこの事務所で寝泊まりしていた。上峯は「神州士衛館」については「私が設立の知恵をつけた」と知人に話していたが、街宣車は所有しておらず、これまで活動実態は皆無だった。捜査当局は、羽根組が暴力団対策法の監視の目を逃れるためにつくったダミー団体とみていた。

近くの自営業の男性は「政治団体の存在はまったく知らない。徐容疑者の顔は見たことがない」と話す。
しかし、ある住民は「暴力団のような若い男たちが出入りすることが多く、車5、6台が違法駐車して、町内会で問題になった」と話している。




●伊勢湾水産

羽根組が運営する水産会社。会社代表は会計責任者の村田が担当していたとされる。シラスの仲介業をしていた。藤田と村田、米倉はこの水産会社の従業員だった。玄関前には番犬が飼われていた。


●みちのく抗争

1989年11月26日、山形県山形市の病院前で羽根組員の遺体が発見される。佐藤会系川村組の縄張りに踏み込んだことが原因だとされ、28日には殺された羽根組組員の葬儀に900人の山口組組員が参列した。



翌日、極東関口一家佐藤会川村組事務所前で、2人の山口組系組員が川村組々員の前で、空に向けて拳銃を威嚇発砲した。

同年12月1日には秋田県警が山口組系組員6人を職務質問し、持っていた拳銃10丁を押収。

2日には青森県青森市で、佐藤会系組事務所にトラックが突入し、拳銃が撃ち込まれた。

3日、東京都豊島区池袋で、極東関口一家小林睦会と極東関口一家斉藤組の組事務所で、拳銃の弾痕が発見された。その後13日を境に抗争は下火となり、90年1月23日に山口組と極東関口一家は手打ちをした。


九州雷鳴社



上峯が所属していた民族派系政治団体。命名者は新右翼活動家・野村秋介だといわれる。「サンデー毎日」(95年8月13日)


北朝鮮工作員



●辛光洙(通名:立山 富蔵)

1929年6月27日、静岡県浜名郡新居町に生まれる。太平洋戦争終結後に北朝鮮に移住。1950年に北朝鮮義勇軍に志願入隊。

1973年7月、日本へ密入国。東京の在日朝鮮人朴春仙と愛人関係になり同居。朴春仙の妹が所有する貸家に、Mと高英雄、そして徐裕行が共同生活をしていた。(この逸話は「救う会」の公式サイトで取り上げられている。)

1980年6月、宮崎県青島海岸にて金吉旭、朝鮮総聯大阪商工会幹部と共犯し、大阪市内の中華料理店で働いていた原敕晁さん(当時43歳)を拉致。(原さんは独身で身寄りが少なかった。)
指示は北朝鮮対外情報調査部副部長・姜海龍によるものだとされる。辛光洙はその後、原さんのパスポートを奪い、原さんに成り済まして海外渡航を繰り返した。

1985年、仲間の密告により、ソウル特別市内で韓国当局に逮捕。裁判でそれまで証拠が不透明だった日本人拉致事件が明らかとなる。

当初は死刑判決を受けたが後に無期懲役に減刑。1999年12月31日、金大中大統領(当時)によるミレニアム恩赦で釈放され、2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された。

2002年、北朝鮮は「拉致の実行犯は処罰した」と述べた。しかし、辛光洙は国から勲章を授与され
日本の警察は辛光洙を国際手配し、北朝鮮に身柄の引き渡しを求めている。

警察当局は、地村保志さん・富貫恵さん夫妻の拉致事件についても辛光洙を容疑者として特定しており、横田めぐみさんの拉致についても関与が疑われている。