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村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

 

教団幹部であった村井秀夫さんの刺殺事件についても、教団が村井さんを殺したのではないか、と言う話がありました。村井さんの口を封ずるためだろうと言う推測です。この事件は九五年四月二十三日の夜に、青山の教団東京総本部道場前の路上で起こりました。

そこは村井さんが刺される前からマスコミと野次馬で溢れ、そんな中での事件でした。彼はすぐ病院へ搬送されましたが、翌日未明になくなりました。犯人は刺した現場で逮捕されました。

その人は、徐裕行とう人で、教団の信者ではありませんでした。教団は事件で部外者を使いませんし、村井さんは麻原氏に最も近かったとはいえ、教団が起こした事件には村井さん以外の人間が多数関わっているので村井さんだけを殺しても意味がありません、私はこの事件をテレビで見て知った直後から、教団が村井さんを殺したとは思っていませんでした。

徐さんはヤクザの羽根組の幹部の指示を受けて犯行に及んだと自供しました。徐さんの裁判では羽根組の幹部の指示があったと認められました。しかし、その幹部の裁判では幹部は指示していないということになり、無罪になったのです。捜査に関わった方から九五年当時に聞いたところによると、徐さんが羽根組に出入りした形跡がない、ということでした。おそらく無理をして羽根組の幹部の裁判をしたのだろうと思います。

 

最近、徐さんは刑期を終えて出所し、当時のことを語っているようですが、羽根組の幹部のことは全く話さず、自分の考えで事件を起こしたと言っているようです。

 

 村井さんの刺殺事件に教団が関わったのではないかと言われた理由の一つに、東京総本部道場へ入る扉のひとつに内側から鍵が掛かっていたことがあります。村井さんは道場の外の階段で地下に降りたものの、施錠されたその扉から入ることが出来ませんでした。彼は階段を昇って地上に戻り、そこの出入口から道場へ入ろうとした時に徐さんに刺されたのです。わざと地下の扉の鍵を掛け、村井さんが地下から入れないようにして犯人に協力したのではないか、そういう話がマスコミで報じられていました。最近、この件がマスコミに取り上げられたと聞きました。

 

 

 私は、九五年五月半ばに、教団関係者が身分を偽って借りていた一軒家で、この鍵を掛けた教団関係者のAさんと話をしたことがあります。私は、I君の部下B君と話しをしていました。そこにAさんが現れ、ジャーナリストの取材を受けないか、と言ってきたのです。Aさんは信徒対応が上手くて有名な人でしたが、教団内の序列は高くなく、部署も違っていたので、私が彼と話すのはこれが最初でした。私とB君が「取材を受ける気はない」と言ったあと、Aさんとは旧知の仲のB君が、何の説明もなく突然「この人が青山の地下の扉を閉めたんだよ」と半ば笑いながら私に教えてくれたのでした。教団が村井さんを殺害しそれにAさんが加担したと言う意味ではなく、徐さんの犯行にAさんが自覚のないまま協力してしまったという趣旨でした。Aさんは苦笑いをして、しかし深刻な表情で、地下の出入口の扉に鍵を掛けた経緯を話してくれました。もう詳細を覚えていませんが、偶然その時に閉めてしまったという趣旨でした。彼は「私のせいですかね」と言って何ともいえない顔をしていました。その様子からしても、教団内の地位からしても、Aさんがこの事件を事前に知っていて扉の鍵を掛けたとは思えませんでした。

 

 村井さんは私の上司でした。最後に会ったのは四月十二日。彼は「もう私は捕まるから」などと言っていました。彼は毎日のように東京の青山と山梨の上九一色村の教団施設を往復しており、彼の行動をずっとマスコミが追ってテレビで中継していました。ある日、村井さんは何故か動物園に立ち寄ったのです。その様子がテレビで放送されました。それを見ながら私は、「出家する前によく動物園へ行って。一日中ゴリラを見ていた」と言っていたのを思い出しました。彼はその日だったか。その翌日に刺されました。村井さんは動物園で見た珍しい光景を教えてくれたこともありました。

 

 

 

中川智正元死刑囚…坂本弁護士一家殺害事件など多数の教団犯罪を実行。

女性信者殺害事件の実行犯とも言われるが関与を否定。

死刑直前にオウム真理教家族の会の永岡弘行会長から女性信者殺害事件を尋ねられるも

「何ですか、それ」「永岡さん、私が今さら嘘を吐くわけないでしょう」と発言している。

 

一方、共犯者の新実智光は事件の関与を認め、上祐史浩も殺害現場に立ち会ったのを認めている。

 

 

「私の60代の母親は、95年3月20日に起きた地下鉄サリン事件の被害者です。サリンを吸い込み、築地にある聖路加国際病院に搬送され入院しました。神経が麻痺して手足に痺れが出ていました。意識がなかったこともありますし、寝たきりになったこともあります。現在は仕事に復帰して元気なのですが、真理的に後遺症が残っている状態です。

その当時、私は民族運動を標榜した政治結社に参加し、オウム真理教に街宣活動をかけていました。他の団体とも連動して、サリン事件前から上九一色村の施設や富士山総本部に乗り込んでいたんです」

 

30代の男性H氏が胡座をかいて本誌の取材に応じているのは、世田谷区南烏山にある「ひかりの輪」本部である。

 

 ひかりの輪とは、オウム真理教で外報部長を務めた上祐史浩代表(掲載当時46)が、07年5月に王蟲の光景団体アレフから独立し、設立した新教団である。オウム=麻原彰晃信仰と決別し、身寄りのない信者の救済や、オウム被害者たちの弁済などの目的で設立したとされ、教団も上祐代表も「麻原からは脱却した」と語る。

だが、公安調査庁はそうは見ていない。

設立当時、ひかりの輪の出家信者の全員がオウムの元出家信者だったことに加え、教団の目的が麻原が提唱する「衆生救済」を受け継いだものであり、上祐代表が行う説法や教材などにも麻原の説く教義が内抱されているとして、今も同庁の観察処分の対象団体としている。

 

「上祐を殺す」

H氏は、ひかりの輪の出家信者でもなく在家の会員でもないが、上祐代表の説法をたびたび聞いたり、集会に参加するシンパなのだという。それにしてもなぜ、実の母親を苦しめたオウムと関連する団体に”入信”したのか。

H氏の真意とともに、その経緯を巡ろう。

 

「サリン事件の直後は、とにかくオウムの人間を殺したい、の一言でした。麻原よりは、その時に浮かんだのは上祐代表でした・母が事件に遭って、犯人が後にオウム真理教だと分かった当時、メディアに出ていたのは上祐代表でした。これが敵だと。〈上祐代表が〉弁が立つことも、当時は気に食わなかったんです。

 

その頃の私は、上祐代表を殺そうと連日、港区南青山のオウム本部前に詰めていました。気配を消して、いかにもオタクのような感じでジッと様子をうかがっていたんです。

暴力団の実質的組員だった徐裕行が4月23日の夜に本部前で幹部の村井秀夫氏を刺殺した時も、私は1mと離れていない距離にいました。マスコミが殺到するその間から見ていたんです。刺殺までの1週間で2〜3回、徐を現場で見ています。

自分は南青山には長時間いたのですが、徐はちょこちょこ様子を見に来るという感じでした」

徐裕行は公判の中で4月20日に殺害を命令され、21日夜に下見したと証言している。22日午前中に殺害しようと現場に行ったがマスコミが多いため断念。翌23日の午前中も本部前に行ったが殺害を見送り、同日夜8時過ぎ、決行した。

 

徐とは年齢が近いし、お互いにまともな人間にはないオーラが出ていましたから気になっていました。見かければ「オッ」と挨拶程度は交わしていましたが、会話はしていません。徐は村井氏だけを狙っていたと思います」

 

サリン事件が元で、H氏と母親の生活は荒んだ。H氏は一般企業で働きながら、警察沙汰にはならなかったが「随分悪さをしました」という。そして05年には刑事事件を起こし、刑務所に3年あまり収監された。

「昨年末に出所しました。逮捕された当初はこれで人生終わりとひねくれていました。そんな時に母親が自殺未遂を起こしまして…首を吊ったのですが、縄が切れて助かりました。私が逮捕されて精神状態がおかしくなったんですね。それで目が覚めました」

 

H氏は収監歴が壁になり今も職は見つからない。母親が働き生計を支えている。

「私と母がようやく精神的に落ち着けたのは今年に入ってからでした。それまで私はオウムがいなかったら、オウムが事件を起こさなかったら、逮捕されるような荒んだ生活をしなくてすんだのにと恨み続けていたんです。でももう恨むのはやめようと最初に言ったのは母でした。自分の責任で前科を負ったのに、王蟲を恨むのは、現実を受け止めたくない”逃げ”だと騙されたわけです。私はその言葉をじっくり考えました。そしてかつての天敵だった上祐代表はどうなのか…そんな思いに至ったのです。ひかりの輪は、贖罪のために被害者に弁済しようとしている。さらに根本的な原因となった麻原から脱却しようとしているという。犯罪者の更生という意味で自分と通じるかもしれないと思ったのです」

 

H氏は服役中から、ひかりの輪が発足したことは知っていたが、オウムと同じではないかと疑問視していたという。だが苦悶の末に、インターネットで上祐代表にコンタクトを取った。その時に送ったメッセージは「出直すことは悪いことではありません、自分も今出直し人生を歩んでいます」というものだった。そして今年5月、H氏が住む千葉県にある、ひかりの輪千葉支部を訪ねたという。

「最初は何も知らない振りをして潜入しました。どう変わったのか、本当は麻原から脱却していないんじゃないかという疑念もありました。これはオウムじゃないと確信したのは、お布施の儀式でした。オウムのように全員が矯正されて多額のお布施をしているわけではなかったからです。20〜30人の信者がいた中でお布施をしていたのは3人だけでした。これを見て、自分たちの意思でやっているんだと思いました。さらに、オウムが麻原を神格化したことを反省して、上祐代表が「自分を神格化させることは決してない」と言ったのを直接聞いて、確信したのです」

 

H氏は麻原が起こしたサリン事件に巻き込まれたことで、被害者として麻原に囚われた。一方、上祐代表は帰依する存在として囚われていた。麻原との関係は異なっていたが、麻原から脱却するという目的は一致していた。

 

麻原への帰依が純化…

 こうしてH氏はひかりの輪に”入信”した。H氏は上祐代表を「ともに生まれ変わる」というシンパシーを感じている」と話すが、麻原については許すことができないと言う。

「早く刑を執行してほしい。死刑は母のような被害者には何の解決にはならない。報復でしかない。報復によって一時癒されるだけで、ずっと癒されるわけではない。ですが、とにかく命で償ってほしい。それだけです。また、そんな麻原を信仰するアレフの人たちには、生まれ変わる方法があることを知ってもらいたい」

 

(後日加筆予定)

 

 

上祐史浩と女性信者殺害事件

 

2018年7月6日。麻原の処刑は大きな話題となった。

12人の弟子たちもほぼ同時に処刑され、法務大臣を賞賛する声が上がった。

その直後に、週刊新潮がこれまで明かされなかった「女性信者殺害事件」を取り上げ

事件に上祐が関与したと報道した。

 

この事件は新実智光元死刑囚の証言で初めて明らかとなった。

 

事件は麻原、村井秀夫、中川智正、女性幹部、新実、そして上祐が関わったとされる。

麻原は廃人状態(詐病説あり)、中川元死刑囚は事件の質問を問われると心当たりがないと答え、女性幹部に至っては逆上して証言を拒否。

 

新実を除いて証言したのは上祐だった。

新実は女性信者の殺害は麻原が直接絞殺したと答え。上祐は、中川が注射で女性信者を薬殺したと主張。

この証言で上祐は激しい非難にさらされた。

上祐は教団が過去に田口や矢島といった信者を粛清した経緯を見てきたため、証言することができなかったと弁明、また警察や刑務官、公安が新実の証言からこの事件を把握したにもかかわらず公表しなかったことを指摘し、彼らの対応もおかしいと反論。

世間の怒りは収まらず上祐の元に刃物が郵送される事件が起きた。夏に予定されていた上祐のトークショーは中止となった。

 

トークショーが再開されたのは、処刑から3ヶ月経ってからだった。

 

ロフトプラスワン

 

2018年10月18日、新宿歌舞伎町。

この日、ロフトプラスワンで上祐史浩と鈴木邦男がトークショーを開催。会場は大勢の客で賑わった。

麻原彰晃と12人の弟子たちが処刑されてから、上祐にとっては初めてのトークショーとなった。

 

鈴木邦男、上祐史浩は、かつてここで徐裕行と一緒に対談し、村井秀夫刺殺事件の背後関係を否定する発言を展開していた。

 

徐の矛盾を事実のように語る二人に対し、長年私は疑問を感じていた。

そこで鈴木邦男に突撃取材を敢行することを決めた。

 

 

突撃取材

 

トイレから出てきた鈴木邦男

 

取材:「質問してもよろしいでしょうか?」

 

鈴木:「ハイ」

 

取材:「鈴木さんは村井秀夫刺殺事件で、徐裕行が『マスコミに煽られて、義憤にかられて殺人を起こした』と主張されていましたね?」

 

鈴木:「ウン。彼が言ったんだよ、徐さんが」

 

 

取材:「そうですよね?しかし、読売新聞と朝日新聞の報道をみると、徐は『右翼の本を読んだことがない』、『右翼思想とは関係ない』という証言をしています。犯行についてですが、『人を殺すという行為が怖かった』という証言も記録されているんですね。上峯憲司という若頭からの指示もあって。」

 

鈴木:「誰の指示?」

 

取材:「上峯憲司という若頭」

 

鈴木:「あ、ヤクザの?」

 

 

取材:「はい。しかし、何故鈴木さんが『背後関係はない』と主張されているのかちょっとよくわからないのですが。」

 

鈴木:「俺彼と何回も話しているけど、彼の義憤だと思うよ」

 

取材:「『義憤』と言われても徐は『怖い』と言ってるのですが。で、上峯憲司の指示が証言ででる筈ですが。」

 

鈴木:「う〜ん、でも…」

 

取材:「義憤だったら上峯の名前は出てこない筈では?」

 

鈴木:「その、右翼とか、ヤクザとか、アドバイスがあったかもしれないけど、最終的には自分でやったからね、決断…」

 

取材:「そこはありますよね。」

 

鈴木:「それを俺は信じたんだけどね」

 

取材:「それが信じるに値すると」

 

鈴木:「で、なんとか事件とかあったじゃない、前の」

 

取材:「豊田商事ですね?」

 

鈴木:「そうそう。豊田商事の人と僕、ずっと手紙交換してきたけれど、彼も似たようなことを言ってたね。そのー、そこに行ったら帰れなかったと」

 

取材:「はい。」

 

鈴木:「それでやらざるを得なくなったと…追い詰められて殺したと」

 

取材:「…という見解であると。それと、もう一つ質問があるのですけども」

 

鈴木:「ハイハイハイ」

 

 

取材:「サンデー毎日(1995年8月13日)の報道によると、上峯憲司がですね、『俺が捕まったら、民族派の右翼に連絡して欲しい』という記録があるのですけれども、この右翼の人物が、『民族派で学生活動をしていた大物右翼』という報道が出ていまして。この人が誰なのか気になるのですが」

 

鈴木:「俺じゃないよ、その、そいういう人と会ったことがないよ

 

取材:「蜷川さんとか中台さんが徐を擁護していたと思うのですが」

 

鈴木:「いや〜…」

 

取材:「心当たりないですか?」

 

鈴木:「ない

 

取材:「わかりました。ありがとうございました」

 

鈴木:「ハイ」

 

 

トークショーでは村井秀夫刺殺事件の質問書が取り上げられた

上祐は背後関係の有無については上峯を名指しするも、「真相は闇の中」と話をまとめるにとどまった。

 

 

 

筆者の見解

 

鈴木はこれまで徐の犯行動機がマスコミに煽られたものと主張した。

しかし、これまでに徐が証言を二転三転させた事実を突きつけてみた結果、

鈴木は根拠のある反論をすることができなかった。

徐の犯行動機について「暴力団に煽られて起こしたもの」と渋々言及せざるを得ない雰囲気であった。

 

鈴木は「徐が周囲に扇動に起こされて起こした事件」と主張しているが、

「徐がオウム事件の犠牲者の仇を討つため起こした事件」とは言っていない。

徐はブログ、twitter、これまで出版された書籍の中で徐がオウム事件の被害者について言及したことが一度もない。

よってこの事件は義憤によって起きたものではないのは明白なのだが、それでも不思議なことに鈴木は義憤という虚像に固執するのである。

 

余談だが、鈴木はトークショーの中で、麻原を裏切り3億円を盗み出そうとした岡崎一明元死刑囚について、不快な表情を浮かべながら「裏切り者だ」と嫌悪感を見せていた。

また村井の最期についても「処刑ではなく刺殺で死ねてよかったと思う」と言及していた。