徐裕行裁判④:徐裕行VS上峯憲司 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●民族派右翼の黒い影

上峯憲司が逮捕前、徐裕行の弁護人探しをしていたことは周知されていた。ところが逮捕されるや否や態度を翻し、「徐裕行とは面識が無い」「食事をしただけでオウムの話などはしていない」と虚偽を主張するようになった。

この時、警察の間では上峯を援護する右翼団体が注目されていた。
ここで、サンデー毎日95年8月13日号36項より引用してみよう。


「ある暴力団を破門され、現在は羽根組と親しいA氏という人物が、上峯被告から『もしおれが捕まったらB氏のところに連絡してくれ』と告げられていたというのです。この事実は捜査当局の資料にも記載されています」

捜査関係者が名を挙げたB氏とは、ある右翼団体の代表を務める人物である。学生時代から右翼活動に身を投じ、「思想家を持って任ずる民族派の大物(関係者)」といわれている。(略)

さらに捜査関係社によれば上峯被告の弁護人にもB氏から紹介された弁護士がついているというのである。(略)

では、上峯被告の弁護人はどういういきさつで選ばれたのだろうか。これまでマスコミへの登場を拒否してきた上峯被告の弁護人が、本誌の直接取材に初めて口を開いた。

「ぼくは山口組から頼まれたんだ。B氏から頼まれた弁護士も一緒に入っていますよ。でもその羽根組の親交者とやらがしゃべっていることは全部ウソですよ。警視庁だって相手にしていないんじゃないですか」

この弁護人はA氏の証言に真っ向から反論し、「ぼくらは公判で勝負するから今は言わないが、見ていてごらんなさい。(上峯の)公判はきっと荒れるよ」というのだ。あたかも、徐被告の「自供」で追い込まれた上峯被告を救う「秘策」があるといわんばかりの口ぶりである。



この記事でサンデー毎日は、上峯がかつて所属していた九州雷鳴社の名付け親は新右翼の理論家・野村秋介だと紹介している。野村は1993年10月に朝日新聞本社で拳銃自殺を遂げ、民族派の間ではカリスマ的存在であった。命日になると追悼集会「群青忌」が毎年行われる。


(野村秋介)

野村はある暴力団組長と懇意な間柄で知られているのだが、この暴力団はオウム真理教や某宗教団体との接点が噂されており、野村の門下生である新右翼活動家たちも親しい関係であった。

彼らは後年、徐裕行と只ならぬ関係を築いていく。



●対決!徐裕行VS上峯憲司

95年10月13日。東京地裁。
徐は体を左右にゆすりながら入廷した。証言台に立つと、凄まじい形相で上峯を睨みつけた。
上峯も鋭い視線を返した。睨み合いは10秒近く続き、法廷に緊張が走った。

検察官の質問
犯行3日前の4月20日、車の中で上峯が指を折り曲げながら教団幹部3人の名を挙げて殺害を指示したことや、人差し指を曲げながら短銃を撃つ動作をし、「これではなく包丁でやれ」と言われたことを具体的に証言。上峯の携帯電話番号もすらすらと答えた。

徐裕行「ヤクザとして生きていくには承諾せざるを得なかった」

尋問には丁寧な言葉で答える徐だったが、かつての”兄貴分”を呼び捨てた。
被告人席にいた上峯はふてぶてしく、時折呆れたような表情で徐をみつめるようになっていた。



徐は上峯から殺害の指示を口止めされていたが、20日夜に飲食店で会った親友を店の外に連れ出し、右手で包丁で刺す真似をしながら、「これからこれをやらなければならない」と話していたことも明らかにした。

徐裕行「少しでも延期したいと思う半面、心の重荷を早く降ろしたかった」と犯行の心境を改めて証言。

殺意を否認しなかったことについては
徐裕行「人の命を奪ったのだから(殺意を)否認することは自分にとって問題のような気がした」と述べた。

尋問が始まる頃は余裕に振る舞っていた上峯も、証言が具体的な指示内容に迫ってくると、落ち着かない様子を見せる。

ところが、徐裕行も声は時折小さくなり、その都度裁判長から「大きな声で」と窘められる事態が起きた。



最後に検察官から「上峯被告は冤罪だと言っているが…」と聞かれると

徐裕行「冤罪なんかではないです」

ときっぱり答え、数秒間、上峯被告と睨み合いながら退廷した。


産經新聞10月14日朝刊27面 朝日新聞10月14日朝刊30面 毎日新聞10月14日朝刊29面 サンデー毎日95年8月13日号