オウムのメディア戦略と警察庁長官狙撃事件 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●サリン事件翌日

3月21日、昼。
上九一色村の化学薬品を処分していた原吉広の前に村井からサリン量産プラントのある第7サティアンに戻るよう呼ばれた。サティアンへ行くと、滝沢和義、渡部和実ら「科技省」の数人がおり、村井は「このメンバーで警察に対応しよう」と言った。

 しかし、まもなく計画変更となり、村井幹部と「法皇内庁」の中川が「ここは自治省に任せて、私たちは去りましょう」と言い、逃げることになった。村井幹部、中川、滝沢、渡部ら7人は2台の車に分乗し、原は村井と同じ車に乗った。

午後八時ごろ。村井は「尊師は『今年は楽しかったな』とおっしゃっていた」と原に伝えた。そしてそれに続けて、しんみりとつぶやいた。

村井「みんなを犯罪者にしちゃったな」

原は自分たちの行為は世間的には犯罪的に見えても、真理追求の道としては正しいと考えていた。しかし、村井が信者を犯罪者にしたことを悔いるような一言をもらしたことで、教団の再起不能を村井が認めたものと受け取った。原はオウムの終焉に絶望した。

村井たちはその晩天竜川の堤防に車を停め、車中で一泊した。
翌日、村井の携帯電話に麻原から連絡が入った。一行は再び第六サティアンへ呼び戻された。

その晩、ロシアのウラジオストックから、教団ラジオ「エウアンゲリヲン・テス・パシレイアス」が麻原の声明を放送した。「戦え!真理の戦士たち」が流れると、北朝鮮のアナウンサーも顔負けの威勢で石川公一の声が放送された。

石川公一「この人間界に降臨された聖なる魂!尊師!!尊師が、もはや、大破局は避けられないといわれている!大破局はまもなくだと言われてる!」

「私は君たちが、私の手となり足となり、あるいは頭となり、救済計画の、手伝いを、してくれることを、待っている。さぁ一緒に、救済計画をおこなおう。そして悔いのない死を迎えようではないか」

●オウムのメディア戦略



3月22日。警視庁は予定通りオウム真理教の強制捜査を行った。
警察官自衛隊員2,500名。

警察はサリン対策のために自衛隊から防毒マスクや科学防護服を調達。
自動小銃による抵抗を想定し、自衛隊も応援に駆けつけた。即座に付近一帯は全面封鎖された。
部屋に入ると、薬物を投与されて意識を失った信者たちを発見。逮捕・監禁罪だとして信者の確保や証拠品押収が徹底された。

青山の東京総本部にも機動隊員が続々入ってきた。抵抗した信者はその場で取り押さえられ連行された。

世間から隔離されていた信者の子供たちは、機動隊員に抱えられて病院へ運ばれた。これに対しオウム側は「警察官が子供を拉致・誘拐した!」と強調し、警察の横暴を訴えに出た。

警察は麻原を捕らえることができなかった。麻原は隔離部屋に隠れていたのだ。

強制捜査の翌日23日、調子に乗った麻原は教団のラジオに登場。

麻原「2500人の警官を動員しての強制捜査をご覧になられたかな?しっかりと教義を学んでいるならば、ノストラダムス秘密の中にある大予言の弾圧の予言を思い出したはず」

3月24日、麻原はNHKにビデオレターを届け、自己の存在をアピールした。



麻原「フッ化ナトリウムは、元々サリンの材料、と言うより、これは、陶器の釉薬の材料なのです。」

麻原「私はまず、今、大変体が病んでいます。これは1700名のサマナの約5割が病んでいる『Q熱リケッチア』と呼ばれる物です」

麻原は仮病を装いながら反撃に出た。

ロシアから上祐外報部長を呼び寄せると、得意のディベート戦術で体制意批判をさせた。
弱みを指摘されると、早口言葉や感情的な素振り、巧みな弁舌ではぐらかした。

青山は弁護士の身分を利用し、捕された信者たちを次々口止めさせた。

22日、モスクワにいた上祐がBBCテレビの取材に出演。
23日から青山弁護士か文化放送ラジオに出演し、教団の潔白を主張しはじめた。
24日、麻原がNHKの質問に回答するビデオレターに出演。「フッ化ナトリウム」
26日、上祐史浩が参戦。3月27日から30日にかけて連日テレビのワードショーに出演。上祐 核心に迫る質問に対しては巧みにずらして答えることが多く、コメンテーターの一人は「ああいえば上祐」と嘆く。

マスコミはオウムを茶化し始めた。
尊師マーチにあわせて踊り狂う麻原の着ぐるみたち。
美化されたアニメーションの麻原。
荒唐無稽な素潜り大会水中クンバカ。
極めつけは「閻魔の数え歌」。

麻原「わ~た~し~は~やってない~潔白だぁ~」

麻原が自己弁護しているように聞こるため、テレビ側は面白がって一節を流し続けた。
ピンクの髭オジさんと愉快な2人組は一躍スターとして扱われるようになっていた。

オウムの対抗馬として長年戦い続けた江川紹子や滝本弁護士がこれに挑み、オウムウォッチャーとして注目を浴びた。有田ヨシフが便乗してこれに続いた。

しかし、教団の中枢である科学技術省の幹部はテレビに出ず、その行方が最大の関心事になっていた。

●警察庁長官狙撃事件

3月30日午前8時31分頃。東京都荒川区南千住の自宅マンション、アクロシティ。
その日、東京は冷たい雨が降っていた。

國松孝次警察庁長官を迎えに、2台の警察車両が待機していた。車から一人の秘書官が出て来ると、周囲の安全を確かめるためゴミ箱を調べた。ところが、離れた物陰に、テロリストが潜んでいた。
國松長官と秘書官が合流すると、通常閉まっていた通用口がたまたま開いていることに気付き、そこから外出しようとした。

そこへ待ち伏せていた男が拳銃を発砲。
秘書官は反射的に長官の上に覆い被さった。しかし、狙撃者は更に連射してきた。3発の銃弾が長官に命中した。秘書官は長官を物陰まで引きずり避難させた。犯人は4発目の銃弾を外すとすぐその場所から逃げ去った。

銃声で待機していた警官たちが集まってきらが、テロリストは既に自転車で逃走していた。
犯人は黒いレインコートに身を包んでいたという。

現場からは、何故か朝鮮人民軍のバッジや大韓民国の10ウォン硬貨が見つかった。

使われた拳銃はコルトパイソン。銃身が長く、通常の拳銃より衝動が強いものである。
それでも動いている目標を短時間で狙い、秘書官が覆い被さったのにも関わらず、3発目を命中させたことから、犯人は熟練者だと考えられた。

狙撃から1時間後、テレビ朝日に電話がかかる。電話の声は、國松に続く次のターゲットとして、井上幸彦警視総監や大森義夫内閣情報調査室長らの名前を挙げて、教団への捜査を止めるように脅迫した。



全国22万人の警察トップが撃たれた。
この事件で警察は特別捜査本部を設置し、威信を掛けた大捜査が始めた。4万人を捜査に投入。
警視庁の捜査本部を主導したのは公安部。捜査が公安部が主導となった理由は、刑事部が
松本サリン事件、仮谷さん拉致事件一連のオウム事件で手一杯だった。

公安はオウムに的を絞った。
まず35人の自衛官信者に注目したが、どれもアリバイがあり犯人を特定することが出来なかった。

次は当時逃走中だった平田信に容疑がかけられた。
高校時代エアライフル競技のインターハイに出場した経験もあった。オウム主催の「軍事訓練ツアー」にも参加しているが、成績は良くなく、人を撃てるようなレベルではなかったという。

そんな中、現職で警視庁警察官でオウム信者だった小杉敏行巡査長が「自分が長官を狙撃した」と告白。しかし、公安はこの取り調べを秘密に行い、警視庁内で情報を共有しようとしなかった。
10月、匿名の投書を機に情報隠蔽が明るみに出たため、井上総監は辞任した。



銃を神田川に捨てた、と小杉の供述に従い、神田川で大捜索が始まった。ダイバーを潜らせたが、水質は汚染され、川底はヘドロが堆積して探すのが困難な状況だった。

そこでしゅんせつ船でヘドロを吸い上げ、泥の中から手作業で銃を捜索する方法に切り替えたが、出てきたものは大量のゴミと乗り捨てられた自転車ばかりで、寒さと悪臭で警官たちの意気は消沈した。

しばらくして小杉は供述を二転三転させた。捜査が混乱し、無駄な時間が費やされた。小杉は懲戒処分された。

2004年、公安部長・青木五郎はオウム犯行説を徹底究明させるため容疑者を根こそぎ逮捕した。

容疑者として逮捕されたのは4人。

オウム真理教の信者で元警視庁巡査長 小杉敏行

教団元「防衛庁」トップの岐部哲 岐部哲也

テレビ朝日に脅迫電話をかけた教団建設省幹部 砂押光朗

麻原彰晃の最側近の一人 石川公一

公安部はオウム犯行説に固執した。
証拠の積み重ねよりも、見立てに基づいて「情報」から絞る捜査手法。かたくなな秘密主義。刑事部との連携のまずさ。公安警察のそうした体質が、すべて裏目に出た。
教団幹全員が否定、巡査長は不起訴となり釈放された。

そんな中、刑事部は中村泰という老練な謎多きスナイパーから重要な情報を得た。
中村が自ら関与を認める「告白」をしたのだ。

窃盗をして東大を中退し、その後銀行強盗を引き起こす。
しかし、結局嫌疑不十分ということで不起訴、そのまま迷宮入りしてしまった。中村の「供述」と国松氏狙撃事件の内容に一部、食い違いも指摘されているためであった。

結局、捜査の初動でオウムに固執したこと、公安の秘密主義、証拠不十分な検証方法、
縦割り組織に見られる情報共有の不徹底、刑事部と公安の縄張り意識が祟り、2010年3月30日に、時効が成立してしまった。



国松長官は手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥った。輸血には10ℓの血液が使われたが、幸い奇跡的に回復し、1年6ヵ月の療養を終えて公務へ復帰した。退任後はスイス大使などを経て、ドクターヘリ推進などの活動に取り組んだ。

国松氏は長官狙撃事件の取材を一切拒否している。


●村井秀夫刺殺事件と警察庁長官狙撃事件について
警察庁長官狙撃事件を取り扱った本は数冊出版されている。被害者が警察のトップであったことから世間の関心は強く、未解決事件でありながらテレビ特集で1時間近く放送されることもある。

一方、マスコミは村井秀夫刺殺事件を避けて放送する傾向にある。稀に触れられても犯人の人物像を伏せて報じるのが大抵である。(例えば、「自称右翼」「在日韓国人」の部分を端折り、「村井秀夫は刺殺されました」とだけ流す。)

オウムマニアと言われる「オウマー」の間でも村井事件はタブー視されているようだ。
これは、犯罪者の社会復帰と更正を妨げる報道が禁じられているからに他ならないが、犯人が現在も反社会集団と密接であり、気軽に取材できないことも要因となっている。

それでも今年3月には、二つの番組が村井秀夫刺殺事件の特集を放送した。捜査の結果や事件の背後関係が不可解だからであろう。ただし、放送された内容は真新しいものではなく、既存の情報を元に構成されたものだった。



これまで当ブログは村井秀夫の人物像、村井秀夫が関与した事件を中心に掘り下げながら執筆を続けてきた。
次回から本題・村井秀夫刺殺事件を紐解いていく。