
この頃、オウム内部では大きな変化が起きてい た。1980年代末、麻原は松本知子 、石井久子、飯田エリ子、大内早苗といった強力な 女性たちに囲まれていた。この女性たちは初期の弟子たちであり、集団として強力な影響力を行使していた。1992年までに、このグループはトップの意思決定から次第に外れていった。代わりに台頭したのは村井秀夫、早川紀代秀、上祐史浩だった。
村井は麻原に可愛がられることを望み、そして麻原との合一を願う教団の操り人形となっていた。他の人々よりも早く麻原教祖との縁を深めたいと考えた村井は、麻原の右腕として誰よりも進んで悪事に手を染めていった。
●池田大作ポア計画

「…93年秋までに、オウムの信徒数を、創価学会なみに増やしたい」
と、麻原は幹部会議の前で強調したことがあった。しかし、それが実現しないのは「創価学会の池田大作名誉会長が、新生党の小沢一郎代表幹事(当時)を使って国家権力を動かし、妨害しているからである」と“ポア”計画を立てた。
村井は、1993年11月中旬頃、遠藤誠一、新實智光、中川及び滝澤和義らに対して、創価学会名誉会長池田大作に、教団で生成した上記サリンをかけるよう指示した。池田が対象となったのは、創価学会信者による被告人の説法会の妨害行為や1990年の総選挙の際の選挙活動妨害行為があり、また、教団を攻撃した『サンデー毎目』を発刊している毎目新聞杜と創価学会とが緊密な関係にあると考えたこと等から、村井が噴霧実験の対象としたのであった。
村井「このサリンは池田大作の暗殺に使う。11月16日までに作ってくれ」
土谷と中川は600gのサリンの生成に目処がついた段階だった。村井は中川に細かく説明はしなかった。
11月15日、村井秀夫は、新實、中川及び滝澤らとともにサリン約600gを注入した農業用の噴霧器で、創価大学を攻撃した。
村井は、指示するにあたって、噴霧の目的も、噴霧によって池田をどうするのかの具体的なことは一切説明せず、「殺害」を意味する言葉も使わなかった。中川らとしても、村井からサリンを生成しろと指示された際に目的は言われず、トン単位のサリンを作るということを聞いていたため、その予備的な実験かと思った程度であった。
中川らは、創価学会の妨害活動等があったことは知っていたが、池田を殺害しなければならないほどの対立感情を抱いていたわけではなく、実際に教団と創価学会とはそこまでの対立関係にはなかった。
村井らは、農薬用噴霧器「霧どんどん」を普通乗用自動車に取り付けて噴霧する方法を考え、同月中旬頃、村井、新實、中川及び滝澤は、噴霧するため、八王子市内の創価学会施設付近まで赴いた。
近くの路上で噴霧器にサリンを注入したが、実際に注入作業をした村井も中川も危険を感じることはまったくなく、両人ともマスクはせずに注入し、まわりで人垣をつくっていた他の者らもマスクはしていなかった。
また、村井や中川は、注入する際、顔面の間近にサリンがあるにもかかわらず、顔をそむけることもなく、また、手袋はせず素手で行った。注入するのに3~4分かかったが、途中で何回も呼吸をした。吸入したり、手等に付着した場合の心配もしていなかった。
村井らは、事前にサリンの予防薬とされるメスチノン(臭化ピリドスチグミン)を飲んでいた。
メスチノンは、重症筋無力症の治療薬であり、当時教団に同病の患者がいたため、治療薬として保管してあったものである。この池田攻撃の当目に村井が、サリン中毒の予防薬ということで中川らに渡したのであった。ただし、村井がメスチノンを配った時は、新實はいなかったため、新實はメスチノンを服用していなかった。
こうして、村井らは、上記普通乗用自動車で創価学会施設周辺を走行しつつ、車の後方から外に向けて噴霧した。車の真後ろにはバイクでついて来る者がいて、この者が噴霧したサリンを浴びたのは明らかであり、また、創価学会施設の警備員らも噴霧したサリンを浴びたのは明らかであったが、何らの影響も現れなかった。注入したものをすべて噴霧し切ったにもかかわらず、何事も起こらなかった。
新實「できてるんですかね」
村井「う一ん」
首をかしげる村井。

しばらくすると、村井、中川、新實及び滝澤たちの体に異変が起きた。「手が震える、息が苦しい、目の前が暗くなる」という症状が出た。村井と滝澤は中川からパムを注射してもらった。これらの症状はいずれも軽く、死の危険性はまったくなかった。
村井たちはサリンが出来ているのかどうか疑問を持った。
なお、この第1回池田事件の際、遠藤が生成を担当していたボツリヌス菌も同じ噴霧車に備えた別の噴霧器(霧どんどん)で撤こうとしたが、噴霧器が途中で動かなくなり、ほとんど撒くことができなかった。
もし、噴霧器が正常に作動し、サリン攻撃が成功したとしても池田の暗殺は不可能だった。(池田はタイ国の王女を迎えた演奏会に参加していた)
12月初旬頃、村井は土谷及び中川に対し、サリンを5kgを造るよう指示した。指示にあたっては、使用目的についての説明はまったくなかった。
サリン生成中、森脇は「動物実験はしないのか」と土谷に訪ねた。土谷は「今の人間は動物より悪行を積んでいる。実験はせず、本番だ」と答えた。同月中旬頃、土谷らはサリン約3kgを完成させた。
八王子の創価学会施設で池田の講演会があるという情報を知った村井は、サリンを加熱して気化させ噴霧する方法を考案し、この方式の噴霧装置を製作して2トンの幌つきトラックに搭載する準備をした。しかし、噴霧を予定していた当日に、この講演会も中止となったことがわかった。
12月18日。
村井は池田が東京都八王子市に来ている情報を掴むと、完成したばかりの「東京牧口記念館」へ向かった。

村井と新實は、サリン3kgを噴霧装置に注入した噴霧車に、中川、遠藤、滝澤はワゴン車にそれぞれ分乗した。
中川は、事前にパム、硫酸アトロピン、メスチノンを準備し、中川、新實らはメスチノンを飲んだ。 噴霧する前に、中川から噴霧車が火を噴くのでは、という話が出た。
村井は、この時のためにガスバーナー仕様の直下加熱式の噴霧装置を制作していが、実際に噴霧しようとしたところ、ガスバーナーの火が噴霧装置に燃え移りトラックの荷台が発火してしまった。創価学会の警備員に察知されて追いかけられ、噴霧は中止した。それどころか新実が防毒マスクを一時的に取り外し、サリンを吸引して瀕死の状態になるハプニングが起きた。
新實「視野が狭い、暗い、体が多少痺れる」
村井の体調に異変はなかったが、遠藤は、目の前が暗くなり足が若干痙撃する症状が起きた。
滝澤は、若干縮瞳を感じた。
新實の容態は悪化し、呼吸困難を起こしてひん死の状態に至った。
医療役として待機していた中川がパムを注射し、村井が人工呼吸を手伝った。
新實はオウム真理教付属病院へ搬送された。容態を心配して麻原が看病に来た。
村井は新實に謝罪したが、新實は貢献できた想いから「気持ちがいい」と語った。
村井たちは最初の霧吹機による散布よりもサリンを加熱し気化させて噴霧したほうが効果が高いことを認識し、理解した。

1993年12月末。
村井は池田事件で使ったサリンの殺傷能力についてはそれほどのものではないと感じていた。確実に標的を狙うには散布するサリンを増やす必要がある。村井はサリンの生産量を増やすよう中川に命じた。
村井「君には救済のためにサリンを作ってもらうよ。次に池田大作を狙うのは、1月5日だ。それまでにサリンを50キロ作ってくれ」
池田大作の暗殺計画はその後も続いた。ビール缶を改造してサリンを詰めて襲撃する計画を井上が発案したが、信徒がすぐ飲み干してしまい実現しなかった。