
●『朝まで生テレビ!』
1991年9月28日 。『朝まで生テレビ!』にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫、杉浦実が出演。幸福の科学幹部らも出演するが、番組途中に麻原が番組の運行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いなどと興奮し、大声で司会の田原総一朗に食ってかかる場面があった。これに対しパネラーの一人であった下村満子は、「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」と麻原をたしなめた。一方で池田昭、島田裕巳など兼ねてからオウムに共鳴的であった宗教学者も出演した。

●ロシア視察と武装化路線
1992年3月。麻原は300人の信者とともに1400万ドル(15億円)の金を用意しロシアを訪問。
ルツコイ副大統領、ハズブラートフ最高会議長、ロボフ専門家会議長等、ロシアの要人とコンタクトをとった。中でも協力的だったのはロボフ議長であり、オウムの支援により「露日大学設立」を設立した。
同年6月、オウム真理教モスクワ支部設立。当時ロシアはソ連崩壊の影響で物価が急上昇し、市民の生活が成り立たない状況だった。そんなロシア国民の隙を狙い、オウムは次々と信者を獲得していった。その傍らでオウムは教団武装化の手掛かりを模索した。
9月、麻原は村井と早川に密命を与えた。

(汎用機関銃を構える早川紀代秀。)
麻原「教団で自動小銃を製造する。ロシア製の自動小銃の現物を見たい。ティローパはロシアに知り合いがいるから、それくらいできるだろう」
92年12月、麻原は早川にロシアでの自動小銃密造のための調査を指示。
早川はロシアを頻繁に訪問し、兵器製造に関する情報収集を続けた。

(映像中、村井秀夫の声も確認できる。)
●「オカムラ鉄工乗っ取り事件」

オカムラ鉄工は、石川県寺井町(現・能美市)に本社を置く油圧シリンダー製造会社であった。
従業員は130名ほどいたが、不渡手形を掴んだことなどにより資金繰りが悪化し、再建に向けて銀行の追加融資を受けており、年間40億の売り上げを維持していた。
経営者・岡村博男氏(当時48)は当時オウム真理教に入信していた。
岡村氏の手記によると、麻原、村井秀夫、石井久子の3人が、初めて「オカムラ鉄工」と訪問したのは87年12月4日。
この時村井は、以前務めていた神戸製鋼の名刺を差し出し「今日は、会社経営の勉強に来ました」と言い工場内部を視察して帰った。
2年後のある日、岡村氏はオウム幹部の大内利有から「面倒を見てやってほしい」と信者の就職相談を引き受けることになった。この信者は金沢支部の女性信者(95年当時37歳)で、93年11月16日に出家していた。
岡村氏に雇われた女性は「オカムラ鉄工」関連会社の「オカムラスプロケット」に入社し、事業部で働くことになった。主な仕事は出荷だった。岡村氏を除くと、社員の中でオウム信者だったのはこの女性だけだった。
女性は工場近くの寺井町に住んでいたが、毎日仕事が終わると、金沢町京町のオウム金沢道場へ自転車で通っていたという。(寺井町から金沢市内へは車でも1時間かかる)
岡村氏が経営に悩む隙に、女性信者は工場内を調査し教団に報告した。

やがて岡村氏は同教団代表の麻原彰晃に相談したことから、教団が経営に関与することになった。
麻原は「2ヶ月で無借金経営にする」と豪語したが、「オカムラ鉄工」に新製品開発を持ちかけて無駄な投資をさせ、資金操りを悪化させた。92年年頭からは産業廃棄物処理や小型焼却炉「ファイナルクリーナー勝利者」の開発を持ちかけ、1億3000万円の投資をさせた。さらに、麻原がメーンバンクに直接融資を申し込んで、オカムラ氏が銀行から直接支援を受ける道を断ち切った。
4月11日、「京セラを超える会社を作る会」と称した講習会を行った。第一回は京都の不動産業者宅で開かれた。この時岡本氏は「会社が急成長する特別な商品開発のやり方、営業戦略、求人対策と社員教育などの話があると思っていた」という。講習会では、教団幹部の大内利裕から「スーパービジョンという商品を次に用意しているので、3年で東芝のような会社になるでしょう」などと”バラ色の夢”を聞かされた。しかし、実態は違った。
岡本氏「中身はオウムの一般のセミナーで話される協議。また、事に当たっては先手必勝で、最大の防御は攻撃だとか、相手にはこちらの情報を与えず、常にこちら主導で話を進めていくなど、俗っぽい説法ばかりだった」
オウムは訳の分からない説法と魅力的な商品開発の話を交互に繰り返して岡村氏を混乱させようとしてきたのである。
この話に対して、岡村氏が「事業として、もっと割り切ってやろう」と提案すると「それなら尊師は手を引きます。岡村さんは信用できない。ここでざんげをしたらどうだ」と大内から脅された。この講演会は6月18日の第4回で終了した。
6月23日、麻原は岡村氏を第2サティアンに呼び、まだ開発段階だったファイナルクリーナについて「オカムラには、ここなでの技術しかないのか。富士で作るから設備を富士へ持ってきなさい」と話した。
「ファイナルクリーナー勝利者」は小型の流動式焼却炉。従来の者は砂を使用するため塩分を含むものを燃やすと塩分と砂が固まってしまうが、「勝利者」はセラミックボールを使い、塩分を含んだものでも焼却できるという触れ込みだった。オウムが作った焼却可能なものとして「糞尿、死骸、廃プラスチック」などが上げられている。
熱交換器やバグフィルターなど周辺機器は既にオカムラ側が既に完成し、中心の焼却炉部分はオウムが担当することなっていた。しかし開発は遅れた。焼却炉の開発をしていたのは滝沢和義、渡邊和実だったが、「彼らのレベルでは設計はできても製造は不可能だった」という。そのため途中で開発は中断し、この頃から岡村氏は麻原に不信感を抱き始めた。(麻原は92年5月にこの「勝利者」を本名の松本智津夫名義で特許出願している。)

7月になって、支援に乗り出していた取引先の機械部品販売会社の経営が悪化し、同31日に倒産。
オカムラ鉄工は3億2000万円の不良債権を抱える。翌日、岡村氏は第2サティアンへ出向き、麻原に再び相談。麻原は現金4000万円の入ったリュックサックを差し出し「これを使いなさい」と答えた。
8月、麻原は岡村氏に「現金で20億円持っていくから、銀行の支援は受けるな」と釘をさす。
一方で岡村氏の知らない間に、オウムが会社のメーンバンクに「教団の資産をすべて担保にする」という条件で15億円の融資を申し込みを行う。これが「オカムラ鉄工」とオウムの関係を世間にアピールする結果を招く。
当時から熊本波野村進出をめぐる住民とのトラブルと県警による強制捜査・坂本弁護士失踪事件によって危険な集団のイメージがつきまとっていた。銀行はすぐに「宗教団体の教祖が全面に断っている企業に融資はできない」と結論を出す。その結果、15億円の融資は断られる形で終わった。
8月末、教団の公認会計士が乗り込んできて資産状況を調査し、教団幹部の飯田エリ子と大内早苗が社員を入信させるために会社を訪れた。
岡村氏は大内利裕からこういわれた。「社員が全員オウムに入らなかったら、この会社は助けられない」
8月26日、岡村氏は会社幹部に事情を説明し、翌27日には会社近くの寺井町福祉会館に全会社員を集めて入信の説明会を開いた。
銀行の支援を断たれ、追いつめられた岡村氏はオウムに頼るしかなかった。
この頃から離職する社員が出てきた。

(暗い表情を隠せない岡村社長、従業員に向かって説明する上祐)
1992年9月13日、麻原は第2サティアンの会合で勝手に「オカムラ鉄工」の社長に就任する事を宣言。岡村氏には事前の相談もなく、その夜男性信者夫妻から一方的に通告を受けた。
その時の岡村氏は「あきれてノーともイェスとも言えなかった」という。
悪夢の社長交代劇は14日。麻原は自らオカムラ鉄工社長に就任した。その日、知人宅に呼ばれた岡村氏は新実智光からこう言われた。
新実「2ヶ月間でオカムラ鉄工を無借金経営にして返します。何かあったら尊師が責任を取ります。(尊師が)真剣にやる時は社長を交代してください。岡村さんは副社長を見ていてください」
そして新実と教団の公認会計士ら幹部が岡村氏を取り囲むと、「これに判を押してください」と書類を見せた。それは「オカムラ鉄工」など4グループの株式を、岡村一族から麻原に譲渡するするという書類だった。しかも文面は岡村氏がオウムに経営を依頼したということになっていた。
更に新実は、その場でテープを回し、「これから株主総会を開きます」と勝手に宣言。「株主譲渡」の手続きを写真と録音で記録。
「この間の雰囲気は異様で、私たちには一切、考えさせる時間と余裕を与えなかった」「オウムの幹部に囲まれ、威圧感の中で、半ば強制的に一連の書類に印を押す作業が進められていった」という。
16日、オカムラ鉄工が運営する工場(能美郡寺井町)に麻原がやってきた。
時刻は午後3〜4時ごろで、バスには石井久子ら信者60〜70人が乗っていた。
到着した麻原は全社員に向かって「オカムラ鉄工は倒産した」とあいさつした。
当時、常務取締役経理部長だった岡村氏の妻は、この日経理室で金庫の前に座っていた。そこへ新実が「奥さん、ちょっときてください」と声をかけ、その間に教団公認会計士、上田竜也らが部屋を占領した。
上田「もう、この部屋には入らないでください」。あっというまの出来事だった。
金庫の中には会社と岡村氏個人の実印があった。「社長の地位を追われても実印があれば何とかなる」という、岡村氏の思惑はもろくも崩れ去った。
従業員の間にはますます動揺が広がる。関係者によると「ほとんどの社員は12月まで我慢してボーナスをもらってから退職するつもりだったが世間の目が許さなかった」という。
「お前はオウムの信者になったのか」「結婚に差し支えるからやめろ」
会社や工場内の壁には麻原のポスターが貼られ、社内放送では「彰晃マーチ」などオウム真理教の音楽を流すなど会社のオウム化を進めた。約130名いた従業員は次々と退職。10月2日の時点で以前から働いていた従業員は10人前後だった。従業員の大量退社は大幅な納期遅れを招いた。
この交代劇をめぐって、ある男性信者が麻原から裏切られている。この男性信者は麻原から「岡村さんの面倒をみてやれ」と指令を受け、会社が倒産しても個人資産が残るよう工作した。手口は、自分が経営する金融会社を通じて「オカムラ鉄工」に3億7000万円の担保を設定するというもので「勝手にお金を貸したようにした」という。これは明らかに破産法や商法に違反する疑いがあるが「そのお金を持たせて私を逃がしてやれという、麻原の指示だったようだ」と後に岡村氏は手記で懐述している。ところが9月13日になって麻原はこの男性信者を第2サティアンへ呼び「実刑を受けるぞ」と脅し、「(この件は)お前に任せていたが、オレが社長になっていくしかないな」と宣言する。
捜査関係者によれば「麻原は、表向きはその男性信者が悪いように見せかけた。その男性信者は岡村さんに対する善意も持っていたので、結局は麻原にはめられた」という。その男性信者はすぐに担保を撤回した。
「オカムラ鉄工」は10月15日倒産した。

その後、麻原彰晃を社長、村井秀夫を常務取締役とし、「株式会社ヴァジラ・アヌッタラ・ヒタ・アビブッディ精密機器工業」と名を変え、従業員のほぼ大半をオウム信者(延べ約80人)で固め、会社乗っ取りに成功した。

(ニヤニヤしながら記者会見する麻原)
1993年1月、オウムは工場内の機械をトラックに積み込み山梨へ搬出した。搬出先は教団工場「清流精舎」だった。
2月、臨時株主総会が開かれ、会社の解散が決まった。負債総額は約26億円だった。
2月末、岡村氏は弁護士を通じてオウム真理教の脱会届を出すとともに債権者や元社員、親類宅などを回り始めた。一人当たりの債権額は100万円から10万単位が多く、債権者からも「今さら返してもらおうとは思わない。もう訪ねてくるな」と冷たい言葉が返ってきた。
社員の大部分は再就職した。
元社員「突然、不況の真っただ中に放り出された。社長はとんでもないことをしてくれた」
岡村氏は貸家に暮らし、土木作業や引っ越しのアルバイトで生活費をまかなった。
岡村元社長「途方に暮れた家族が泣いている。自分の罪深さを自覚する」

「朝日新聞」93年5月26日夕刊13面より
・兵器開発への道
1月31日。麻原は、大勢の信者らを前に「ノストラダムスの予言」と称し、教団の武装化を進める宣言をした。
麻原「オウム真理教は、やはり、最終的には軍事力を有することになるんだろう」

1993年2月13日。ロシアを訪問した村井はロケット施設へ向かった。
これらはソ連がアメリカに対抗するため生まれた、いわば冷戦時代の産物である。

ロシア人技師「マッハ17ぐらい出ます」
村井「おぉー」

子供の頃から宇宙に憧れてきた村井にとっては大変幸せな体験だった。村井は夢中になってカメラのシャッターを押した。

1993年2月28日。麻原は村井にロシアから自動小銃密造のための調査を指示。自動小銃の部品や銃弾を持ち帰る。
4月以降、村井は土谷に対し、LSD,Vガス、ソマン、サリン等の研究を指示。
4月21日〜5月1日、早川がロシアへ渡航。
93年夏。
村井は東京都中央区にある特殊鋼卸会社など3社から数十t単位の鉄くずを数回に分けて購入した。村井は卸会社を直接訪れたり、ファックスで連絡を取ったりして特殊鋼を合計120t注文した。購入していた特殊鋼は、直径十数㎝から三十㎝で、長さ1mから数mの丸棒鋼。資材は「清流精舎」へ搬送された。麻原の野望が着々と進められた。

93年6月、「マハーポーシャ・オーストラリア」が設立。西オーストラリア州中部のレオノラ近郊に羊牧場を購入した。
●亀戸異臭事件
1993年6月28日。
東京都江東区亀戸七丁目、オウム真理教「新東京総本部ビル」。鉄筋8階建てのビルの最上階から突然、大量の水蒸気やが吹き出した。同時に、水蒸気から酷い悪臭が漂い、近隣住民たちの日常をかき乱した。道路には「ゼリー状の物体」がまき散らされていた。

(東京都江東区・新東京総本部ビル)
この騒動は麻原が炭疽菌による無差別テロを計画したものであった。これは皇居周辺で疫病が発生する予言の演出だった。
麻原「君たちはほふられた子羊だから、救済のために頑張るように」
炭疽菌はビル内で培養したもので設備は遠藤誠一と渡部が担当した。さらに渡部と豊田亨がトラック用エンジンを動力とした噴霧装置「ウォーターマッハ」を開発し、地下一階に設置する大規模工事を実施した。噴霧のときは炭疽菌を地下から屋上までパイプまで通り、二基のクーリングタワーから噴射、周辺を攻撃する大規模な仕組みとなっていた。

(工事現場を視察に訪れた麻原彰晃と村井秀夫。6月8日撮影。)

(工事現場を監督する村井秀夫ら)

28日、麻原、村井の立会いで外部に向けて前後二回にわたり炭疽菌が散布された。
信者たちは被害対策のためガスマスクを装着し点滴を受けた。6時間おきに飲む薬も準備していた。

ところが、この殺戮設備には欠陥があった。噴霧器の噴射が高圧だったため、エンジンが火を吹き、オーバーヒートを起こして途中階のパイプが破損してしまった。さらに、亀裂から物凄い悪臭が漏れてしまったため皆パニック状態となった。
臭いを防ごうと試しに香水を混ぜてみたものの、逆効果。耐えられなくなった早川は防毒マスクをつけてそのまま外へ飛び出した。
麻原「バカヤロー!!そんな格好で外へ出たらばれるじゃないか!!」

結局は炭疽菌が死滅し、オウムの殺戮計画は失敗に終わった。
実行犯の一人である原吉広は「爆発物をつくるためと思っていたが、村井が仕掛けた電気分解装置の設計がいい加減で最終生成物の生成に失敗した」と証言している。
しかし教団にとって更なる災難が待ち受けていた。
7月2日。
住民「くせぇな、これ」「何かくせぇな」「くせぇな」
悪臭に反応して住民が次々路上に現れた。

臭いの発生源を探して住民たちはぞろぞろと「新東京総本部ビル」前に、皆荒々しい声をあげて押し寄せてきた。その数約100人。
信者「大変なことになったぞ…」
信者たちは異臭の原因について「宗教儀式で大豆と香水を燃やしたため」と誤摩化すも、他の信者が「米軍や国家権力から毒ガスや細菌攻撃を受けている」と異なる返事をしたため、雲行きはますます悪化。
信者「うっせーなー!バカヤロー!」
住民女性「だってしょうがないよー!我慢の限度がきてんだからね!」
住民男性「だっ、代表として話をしようと言ってんじゃんか!」
住民男性「だってね、だってね、今まで公園に20羽ぐらいいたハトったねー、スズメがいた一匹もいないやんか!(原文ママ)アンタ鳥が逃げるとこで生活できるかお前ー!いっくらなんだってさー!」
激怒したが集結する中、専用のベンツで麻原尊師が登場。住民たち怒りは頂点に達した。

住民男性「麻原だ!麻原!ホラ」「オーイ取り囲めぇー!オーイ取り囲めー!全部取り囲めー!」
住民女性「麻原だよ〜!」

麻原を守ろうとアーナンダ井上が必死になり絶叫する。
井上「代表者ですから!」
住民「お前ねッ!さっきから出て来いいって言ったのに出てこんじゃんか!!」
井上「警察の代表者と、住民の代表者と…」「教祖ですから!!」
住民男性「今出て来いったん!車から!」住民女性「ショーコー!!」「ショーコー!!でろよー!」「オルァー!」

車はすぐに住民に取り囲まれベンツは蹴られてボコボコに。
「オメーかァ麻原は!この野郎!」
殺気立つ住民を前に、麻原は車の中でブルブル震えるしかなかった。その姿は天敵の前で怯える小動物のようにみえた。ひるんだ麻原は近くにいた警察官に弱音を吐いた。
麻原「おまわりさ〜ん。私、帰ったほうがいいですよね」
警官「ダメだ帰っちゃ!きちんと住民に説明しなさい」



「痛い!」

(この時に限り警察に守られる麻原)
住民男性に頭を小突かれながら車外に出た麻原は、住民代表のもとへ向かった。
住民代表の松川博一氏が「悪臭を出さないでほしい、悪臭の原因が何なのか」と麻原に詰め寄った。警官が仲裁に入り住民代表と教祖の間で会合が行われた。

(住民の怒りが下火になり、なんとか車へ出られた麻原。教祖らしく振る舞う。)
異臭は4日間続いた。
悪臭騒動を受けて江東区公害課が教団ビルの立入検査に踏み切ろうとしたが、上祐が期日を二週間後に指定。検査が行われた時には、屋上に設置してあったクーリングタワーは撤去されていた。撤去されたクーリングタワーは上九一色村の「ジーヴァカ棟」あたりに移されたという。
亀戸異臭事件は住民、教団そして麻原自身に深い傷を残した。
やがて信者たちの中に激しい狂気と憎悪のうねりが胸の内に芽生えていった。

●サリン事件への道
炭疽菌は成果を出さないまま終わった。
麻原は、村井、上祐、新実らを集め会議の席で次の意見を出した。
「成果の出ない炭疽菌などの生物兵器ではなく、サリンの製造をすべきだ」
「生物兵器よりも化学兵器の方が効果は確からしい」
「化学兵器の方が経済効率も高い」
皆意見が一致した。村井は、サリンと生物兵器を製造する際の、それぞれの費用などを計算した。村井は早速直属の部下たちにサリン生成を命じた。
村井「サリン70tを作ります」
土谷「サリン…70t!?」
村井「ここに、サリン製造のプラントをつくり、大量生産を開始する。そのため君に…標準サンプルを作ってもらいたい」
村井「オウムは自衛力を持たなければ国家権力につぶされてしまう。1年以内に自衛隊程度の防衛力を作らなければならない。そのためにも…」
村井「尊師が君の力を借りたいとおっしゃっている!」
土谷「……!!はい!喜んで!」
村井としては、ハルマゲドン(最終戦争)に備えて教団を防衛するために化学兵器を持つ必要がある旨を土谷に説き、「ファーストストライクはない」と述べて、土谷に指示したのであった。
サリン生成は「科学班」キャップの土谷正実が中心となってはじまった。
8月。村井はサリン70t計画を麻原に発表し、了解を得た。麻原は10億円の資金を準備し、「第7サティアン」の建造を始めた。
麻原「サリンを作るためだったら、どんなに金がかかってもいいから、好きなようにやれ」
新実の前で、村井は離婚した森脇にもサリン製造の協力を依頼した。
村井「危険なワークをやってくれるか。すぐ準備してくれ」
元妻は了承した。
9月。第7サティアンの建物が完成。
同月、麻原、村井、井上、新実、遠藤誠一、教団付属医院顧問の信者がオーストラリアへ入国。
遠藤、付属医院の信者が塩酸などの劇薬を持ち込んだとして逮捕され罰金2400豪ドル(当時17万円)の有罪判決を受ける。

持ち込まれた薬品
オウムはオーストラリア国内に所有する牧場を買い取ると、サリンの効果を試すため羊を使った生体実験をおこなった。村井は現場を視察した。





(フランス漫画「Matumoto」より。険しい表情を見せる村井。)
教団は牧場内にサリンの機材を持ち込むと、実験を開始。その結果24頭の羊が死んだ。
後年、現場でサリンの残留物メチルホス酸が豪州捜査当局に発見されることとなる。

11月初旬、土谷はフラスコ内で20gのサリンの生成に成功。しかしここで村井からクレームが入る。
村井「コストがかかり過ぎる。安い物質を分解するとかして原料化できないか。もっと勉強してくれ」
土谷(サリンさえ作れば好きな通りにやってよいと言われたのに…話が違うじゃないか)
村井は土谷と中川智正にサリン5kgの生成を命じ、本格的な量産が始まった。
