
昭和の中頃の話。
下小塙町に“ゼンちゃん”という「知恵遅れ(知的障害)」の人がいた。
ゼンちゃんは成人男性で、道でばったり会ったりすると追いかけてきて乱暴を振るうという噂だった。小学生の子供たちの中には実際にゼンちゃんに追いかけられ逃げ惑った経験のある者もおり、六郷小学校の前から下小塙町へと続く一本道を行くのは、当時小学生だった自分にとって勇気のいることだった。ただ自宅は下小塙とは反対の方角だったので、わざわざ出向いていかない限りゼンちゃんに会うことはなかった。
ところがある冬の朝、父が仕事で新井団地の建築現場に向かう道でゼンちゃんに出会ったのだという。ゼンちゃんは「おじさん寒いのう」とニコニコしながら白い息を吐き通り過ぎて行ったというのである。ゼンちゃんを暴れん坊で恐怖の対象と見なしていたので意外だった。ゼンちゃんは機嫌が良かったのか、大人には優しいのか、考えてみれば狂犬のようにわけもわからず誰にでも噛みつく人ではなかったのだ。前述のゼンちゃんから逃げ惑った子供の話も、きっとイタズラしたりケンカを仕掛けたから追いかけられたんだろうと思った。
その後、中学生になり下小塙町に出かけた際、一度だけゼンちゃんを見かけたことがあった。いっしょにいた同級生があれがゼンちゃんだよと教えてくれた。ゼンちゃんは想像していたような大男ではなく背丈の低いおじさんで、弟を連れて水たまりのある泥道をゆっくり歩いて上小塙町の方へ去っていった。
(おしまい)