遠藤周作原作の『沈黙』を観てきました。
(原作を読んでない方、ネタバレですのでご了承ください)
私は若い時に何度かキリスト教会や聖書に触れる機会があったけれど、今はたぶん一般的な日本人の宗教観の持ち主かなと思っています。
お正月の神社参拝⛩に行き、
お葬式ではお坊さんに従い、
子どもが小さい頃はクリスマスも祝い、
サンタさんになって我が子たちにプレゼントを買い、ケーキも作ってきましたので。
私が中学生のころに
母がクリスチャンになるまでは、
家族で神社やお寺に行き、クリスマスもツリーを飾ってケーキを食べていたのですが、
その後妹たちも続いてクリスチャンとなり、
気づけば、父と二人が
クリスチャンにならず残ったのでした。
自分の家族だからなのか、
いかに母たちが自分たちの教えを説こうとも、
いつものクリスチャンらしからぬ言動に目が行くわけで
す
あれこれとつまみぐいながら、
多方面のことを多少知った気になっている私としては、なんとも彼らの日常から、
クリスチャンであることに魅力を感じられないのです。
家族って逆に、伝えることが難しいもののようです。全くの他人からの方が同じ話でも聞きやすいってこと、ありませんか?
最近は、ようやく諦めてもらえたのか、
私の前でのそちらのお話は
しないようになりました。
前置き、長すぎました(;^ω^A
私は原作を読んでいません。
当時の切支丹の弾圧には描かれていないもっと他の理由があるとの情報を得ていて、やはりそこは触れられていなかったのが残念でした。(いわゆる裏歴史は表に決して出ることがないですね)
正直であることは時として、人を裏切ることにもなる。信仰心を捨てれば命が救われるという場合、生きたいと思い踏み絵を踏むことをとがめることは出来ないと思いました。
クリスチャンであることによって、
いつもいつも、神様を忘れず裏切らずではなく、
信仰を常に最優先しなくてもいいんだな、と自分の家族のクリスチャンたちを見ていて思っていたので。
ご都合主義のクリスチャンたちって、
普通にいるものだと感じていましたし。
だから、この映画の中の窪塚洋介さん演じる切支丹キチジローの行動もわからないこともないし、どんな理由にせよ宣教師たちが踏み絵を踏んで、日本人として日本人の妻をめとり子を設けて、新しい価値観を受け入れて生きていくことも逆に人間として強いのではないかと思うのです。
主人公の宣教師は自分が棄教して、目の前の拷問を受けている人々の命を救う道を選びました。その後の人生を棄教者として、惨めに過ごした彼、微塵もその彼に救いがなかったのが観ていて辛かったです。
逆にキチジローは切支丹ですが、
ホントに笑っちゃうくらい信仰心の揺らぐおひと。
何度も踏み絵を踏んで生き延びていくさまは、もう心が弱いのか、強いのか、
わからなくなる

どんな人でも受け入れるのが宗教なのかもしれないけれど、
裏切ってしまいました!
私は踏み絵を踏みました!
ロザリオに唾を吐きました!
私は罪深い人間です!
許してください!
沈黙というタイトルに反して、
セリフの多い映画でした。
キリスト教を信仰している方には申し訳ないけれど、私は日本人の宗教というものはもっと広くて緩やかで奥が深いのではないかと勝手に思っています。
自分を追ってポルトガルからはるばるやってきた、若い宣教師に、日本人として生きる覚悟をした元神父が、
この国にはキリスト教は根付かない。
なぜなら彼らの神様は太陽だから、などと言う場面があり、
今度は原作を読んでみようかなと思いました。
今日も長くなりました!
ここまで読んでくださり、
本当にありがとうございます。