セルフ・アップデーターという在り方 -34ページ目

セルフ・アップデーターという在り方

旧:とある学会のサロン模様~「D学会 D・サロン」~
タイトルを刷新しました。

あらためまして、セルフ・アップデーターのひでです。
セルフ時代の現代を生きる一人一人の自己(セルフ)に焦点を当て、総合力の更新(アップデート)を全力でサポートします。

「新年あけましておめでとうございます!」と始まる一年も既に10日が過ぎ、今日は鏡開きをされている方も多いのではなかろうか。また成人の日でもあり、各地で新成人の門出を祝う行事も多く催され大変華やかに賑わっている様子をテレビで拝見した。若い力でこれからの社会を刷新して欲しいと期待し、現状の社会については思う所も多く記しておこうと考えた。

 さて、私は一昨日、とある大学で安全に関する講座を履修した。この講座はシリーズで受講しており、前期は安全文化論として「リスクコミュニケーション」について考え、後期は「リスクアセスメント」として工学面から安全を考えて3年目である。

どちらも二回ずつ受講し、じっくり考えて来たつもりである。其々の業界で尽力されている方々には少々耳の痛い事も、置き去りになっている事項もこの講座をきっかけに知り、中には半ば知りたくなかった様な事もあった。

それはひとまず横に置くとして、昨今はテロや政治的要素も大きく、安全など既に失われつつある事も事実として感じておられる方も多いかと思う。その一方で、危機感が持てない方々も相当に多いのではないかとも感じているのである。誰が悪いとかでは無く、そういう社会全体的な感覚なのではないかと思うのである。

平たく言えば、この国の社会風土としての感覚が鈍っているのではないかと思うのである。そんな掴みどころの無いものを危惧しているのは私だけなのだろうか?いつから疑問に思う事を忘れ、根拠の薄い利己的な主観に頼りきる様になったのだろうか?

例えば、経済の根本的な立て直しを政府が担うなど、いったいいつの時代の政策なのだろうか?この試みで痛手を被った歴史が忘れ去られているのはなぜか?

台頭している先導者は扇動者ではないだろうか?
民主主義の名のもとに台頭しているのは本当にわれわれが望むリーダーなのだろうか?

もし、そうでないのであれば歴史に学び直さなければならないはずだ。戦争を容認し、武器を売るなど、民意で望まれたものだろうか?こうして考えると、枚挙にいとまがないとは言え呆れてばかりもいられない。

歴史に学び対策を講じ、本来のわれわれの社会的感覚を取り戻す絶好の機会である。われわれの課題である。

この辺りで、表題にも触れておこう。日本製品は安全だという神話は、いったいいつまで続くのだろうか?おそらく、勘違いされている部分も多いのではないかと私は思う。日本製品は確かに良いとは聞くが、安全性については別の問題である。

日本製品は質が良く、使い勝手が良い。だが、安全に使えるシステムとしての設計や仕組み部分の基礎は、ほとんど輸入ではないかと私は考えている。なぜなら、日本は工業も産業も発展したのは戦後であり後発だからだ。

また、日本独自で特許となった安全システムはその当時ほとんど受け入れられなかった様である。

他に、ものづくりを教える大学では必要な事に思えるのだが、大学では業界発展に懸念があるとして安全学が授業に取り入れられる事は殆どなかったとの事である。それは現代も変わらず、先に挙げた安全学の講座も一昨日で最終講との事で講師陣の無念さを私は感じたのである。有名大学でさえも安全学は打ち切りである。

安全については現場で学べとは、冷淡で残酷であると言わざるを得ない。現場で安全を学べとは、危険を身を持って経験する事である。つまり、事故に遭ったら命の別状さえ現場での自己責任というものである。

だが、本来の安全確保の学びは身を持って事故に遭わない為にどんな策を打つかである。現場で作業をしながら学んでいては後手に回りかねない。事故に遭ってからでは遅いのだ。昔からそうだと言わざるを得ないのかも知れないが、斬り捨て御免の時代ではない。

根拠の薄い言い訳で誤魔化して学生を集める事より、社会に出てから役立つ有用性を教え、ものづくり日本を支える実学が重要ではないかと私は思う。

「ええ格好しい(カリスマ)」は政治にも、社会の実学にも要らないのだ。

日本が今後さらなる発展をするには、相当の覚悟が必要になると私は考えている。ただし、難しいことは何もないくらい単純な様にも感じるくらいである。

それは、一人ひとりが真摯さを発揮する事である。嘘偽りなく、物事に真摯に向き合う事である。言葉の定義や扱いがいろいろあるが、自分自身の良心に訊ね熟考すれば、応えは導き出されるはずである。われわれ一人ひとりが答えを持っているはずである。

誰かが正しい、間違っているではなく、その答えの持つ意味や方向性が社会を醸成しその感覚が社会の感覚になると私は考えている。それが社会人であり、安心で安全な社会を創る人である。全体主義はそうして回避されるものでもある。

 われわれがその一役を担っている事を忘れてはならない。