2016年になって既に2カ月が過ぎ3月も半ば。花粉が飛び始め春になったなと思う今日この頃。普段からテレビはほとんど見ないのだが、ニュースの合間に流れる花粉アレルギー特効薬のCMを目にすると不快感が増す。
以前よりだいぶ楽になったものの、外出はできるだけ避けたいと密かに願う。だが、この時期しか堪能出来ない花見には行きたいとも同時に思う。開花までもう少し待ち遠しく悩ましい。
さて、今年に入って、友人とダイアローグの会を起ち上げた。会の名前は『ぶらっと立ち寄る 話の輪 ミカタのミカタ』という会である。ブログ型HPもこのアメーバのowndで始めてみた。詳細はこちらへ。
会を2回ほどやってみて、気付いた事が最近少し整理されたのでまとめてみたい。
きっかけは「あなたは誰とでもうまく話が出来るじゃない。それは、どうして?知らない人は怖くないの?嫌じゃないの?」という妻の一言だった。私的には、そんな事はなく苦手な人もいる。毛嫌いしている場合もあるだろう。それはそれで良く、それ以上でもそれ以下でもない。特に何か対処をしようとは思わない。
強面の人だからと構えた所で、どんな人か分からない以上は観察に留めている。対処のしようがないのだ。なんとなくの印象が良く無いからといって嫌う必要はない。逆に毛嫌いされたからといって取繕う事も傷付く事もない。残念には思うだろうが、それ以上でもそれ以下でもない。
毛嫌いしたのは自分ではなく相手である。相手の感情に執着するより、やることはいつだって山積している。相手の何処に居るか分からない腹の虫のご機嫌を取りに行く様な時間は無い。では、どうするのか?これはあくまで私の自己観察に過ぎないのだが、最低限のマナーを大切に自己開示するのである。
最低限のマナーとは「ありがとう」や「ごめんなさい」「教えてほしい」「助かります」といったもので、上座がどうで偉い人は何処に座してなどといったものではない。
なぜなら、地域や国によって風習があり常識と呼ばれる前提(になる条件)は常に異なるからである。前提が変われば常識は変わるのである。人それぞれで使われている常識は違うと考えれば、使える前提は少ない。
極端に言えば、日本人だから日本語で大丈夫と言い切るには、日本語が話せるという前提条件が必要なのである。例えば英語以外に話せない日本人も居てなんら不思議はない。
知らない事の方が多いのは、自分が限定した視野の範囲で物事を捉えている事が多いからである。そう鑑みると、コミュニケーション力向上には自分の視野範囲を広げる工夫も必要だという事になる。
そして、何より実際にコミュニケーションをとる場を多く経験する事が有効だと言えるのではないかと私は考える。コミュニケーション力の向上に、実践ほど有効な学び方は考え難いようにさえ感じるのである。視野を広げ、可能性を増やすには、物事の捉え方や価値観を多く自分に取り込む事では無いかと思うのは浅はかな私の考えであろうか。
反対に視野が狭くなるのはいつからなのだろう?なぜ視野が狭く考え方が限定されるのだろうか?可能性を限定してしまうのはなぜだろうか?それはいつ頃からだろうか?少し考えてみたい。
これは例えであり、教育についてどうこう言える立場ではないが、現代の通り一辺倒に偏った学校教育の側面は、答案内容の正否に特化して差がつく。多くの場合は、授業の中で答案内容の正否に特化した知識を詰め込むのが「学び」とされている様にすら私には見える。
分かると出来るは違うと断言しながら、知識上の正否で知識量を測る。学力試験(テスト)である。理解力の計測とも言われているが、答案の仕方が理解されているだけで物事の理解にはあまり結び付いていない事が多いと感じるのは私だけだろうか。
テストの点数に特化し着目するのはなぜだろうか?実践を通して理解を深める人には、厳しい現実である。テストで悪い点数はダメで、知識は正しく無ければダメ、間違えてはダメ、ダメな事は恥であり、失敗してはいけない。発言は正確にと教えられる。
点数で測る事で知識量が見えるような錯覚に我々は陥ってはいないだろうか?幾重にも学力試験でチェックを厳しくする事が優秀な人材の育成だと勘違いも甚だしいような過ちは犯していないだろうか?
実際の社会生活の中で我々が求め、求められるのは学力や学歴より人間力ではないだろうか。コミュニケーション力がある人を我々は重視しているのではないだろうか。そんな事に気付くのは、社会に出て随分経ってからである。
間違え無い挑戦は難しい。なぜなら挑戦にならないからである。挑戦にならない挑戦とは、もっともらしく無難な事を挑戦したかの様に見せかけでしか無い。見せかけでは経験値は上がらず得るものは少ない。せいぜいうまく見せかける経験値が上がるだけで報告書の見せ方がうまくなるだけである。
本気で挑戦するには、勇気が必要になる。勇気は繰り返し経験していく中で得られるのではないかと私は考える。失敗が許される環境の中で、挑戦させてくれる師の下で繰り返し学ぶのである。私が考える失敗が許される環境とは、等しく救済される環境下の事である事を補足しておきたい。
救済措置の無い教育では、人は育たないとさえ思うのである。救済される環境と師が居れば、挑戦はしやすく失敗さえも経験値に変換出来る能力が身につく。経験値は勇気を育み、挑戦は可能性を拡げ未来すら創造出来るように思うのは私の素敵な勘違いであろうか。
本来の教育は、その人に向いている可能性を模索する事で、挑戦する事を恐れず「やってみる」に向かわせる事ではなかっただろうか。そして繰り返し経験し、うまくいく方法を自分から見つけられる人を育む事ではなかっただろうか。多様な人と関係性を築く為のコミュニケーション力を培う場ではなかったのだろうか。
共に学ぶ学友はライバルであっても、蹴落とす敵では無かったはずである。
この先何年くらいこの課題を先送りしていくのだろうか。先送りしているのは、文部科学省や教育委員会ではない。我々に他ならない。
ではどうすれば良いのか。
少なくとも、コミュニケーション力の向上は2人以上いれば可能になる。やり方も古くから伝えられている。シンプルで簡単ですらある。それは話す事である。
相手にアドバイスする事でも情報交換する事でもない。知識や意見の押しつけでもない。相手が望むものであり、相手が分かる馴染みのある言葉で話す事である。お互いに理解し信頼し合える関係性が、コミュニケーションが取れている状態であると私は考える。
そうした状態は我々が最も理想であるとしながら先送りしてきた、やれば解決出来る課題である。
我々は一人ひとりが優秀な個人である。個人があげられる成果はそれほど大きくは無い。だが、チームや大組織であげる成果は大きく出来る。
社会はその成果の恩恵で成長し、またその社会の中で我々が成長するのである。課題への取り組みを先送りしている猶予は一体いつまで許されているのだろうか――。