この話は、D・サロンの今月(9月)の記事内に「仲良しクラブ」として書いたのだが、少しまとめておこうと思う。
人というのは不思議なもので、仲間意識が強い。「協調し合う事」という前提が根強くある。日本の文化は特に強い。本来この文化は助け合う精神の原則だったはずだが、いつしか村の掟や規則となり拘束力を持つ事で、意味合いが歪み逆転した。
そして、村八分にされたくないという恐怖と不安が根付いた。心情的に当然でもあるのだが「ルールを守っていれば大丈夫」という安心感からは何も生まれない。仲間意識は保たれたとしても、村人のままである事に変化は無い。
村のルールや決まり事を必死にしっかり守っても、それは「当たり前の事」でしかない。「当たり前の事」としてのルールは、何も向上させてはくれない。良くて無難に生き、悪い人にはギリギリならない程度だ。
無難に生きて悪い事は無いが、それは受け身で生きて行くという事でしかない。言い換えれば、何も進歩しない。いや、ルールを守ることが良い事だと錯覚している為に、進歩も成長もできないのだ。
ルールや規則・マナーを守って生きることが人生の目的ではない。人生に必要なたしなみであると私は思う。
職場のチーム内でも同じような光景は良く目にするのではないだろうか。例えば、さんざん愚痴って文句を言う割には、成果は上がらないというありきたりの光景である。
そのチームでさぼっている人はあまりいないにも関わらず、むしろ一生懸命やっているのに、成果は上がらない。愚痴は多いが、ルールは皆が守っている。言われた事は無難にこなしている。チーム内で失敗しない様に、目立たない様に、追い出されない様に。
それさえやっていれば、定時間内で安定した給料とチームの功労者という位置づけが得られるから。みんながそうしていた。安定と平和を望むのは働く者として当然の権利だとチームのリーダー格、更には所属課長が高々と宣言していた。
チーム内の人間関係は和気あいあいと仲が良かった。仲良く作業を分け合って、無難にこなしていた。難しい仕事は他のチームに先送りした。チームの責任になりそうな発言や気に入らないアドバイスを言う者は村八分のごとく追いつめた。
フィードバックする者に対しても同様の態度をとった。「トップも認めている」と豪語していた。当時、社内では上層部と現場リーダーの間で呑ミニケーションが盛んに行われていた。そうした場では責任は部門長にあるとトップから言い渡され、現場リーダーは安心しきっていた。
やがて、このチームは会社状況の逼迫に合わせ散開した。
こうしてみると、仕事を仲良くこなすこのチームは居心地の良いコンフォートゾーン(快適領域)であったと考える。
コミュニティの形成に必要なリーダーシップや責任は誤った方向に発動されてしまった。発言やアドバイスを受け入れなくなったのは、その表れである。
そうした誤解の要因はトップの言動や行動が扇動したと言える。
よって、本来の成果をあげるために結成されるべくチームはコンフォートゾーンの中では作れないことが分かる。組織内のコンフォートゾーンの中で作れるのは「仲良しクラブ」だけである。
これを書きながらもう一つ分かった事がある。
それは、成果はコンフォートゾーンの中には表れないということだ。
なぜなら、成果は顧客が得る価値であり、満足であるからだ。
成果をあげるには顧客の価値を聴き、満足を引き出せる商品やサービスを提供していかなければならない。
この活動の場が会社であり組織ならば、コンフォートゾーンであるはずがなく、その必要もないはずである。
会社は成果をあげるためのチャレンジゾーンであり、フォローアップゾーンではないかと私は考える。
挑戦の場であり、補い合う場としての会社の中で作られるチームは成果をあげる方法をやがて自ら持つようになると私には思えるのである――。