昨夜、娘と交わした会話の中でこんなやりとりがあった。
週末で浮かれているのか、22:30を過ぎてもなかなか眠ろうとしない娘に、質問してみた。
私はパソコンでデジカメの画像整理などをしながらの会話だった。
通常の家庭であれば、さっさと布団に行くように叱るのだろう。
私は根性無しなので、基本的に自主性に訴える以外はしないと決めている。
叱りつけて恐怖で支配するのは、危険な時やルール違反な時だけで充分だと思うからだ。
いずれにしても、自分で判断できるようになるはずだ。(眠ければ、寝るだろう。笑)
彼女はマンガ本(分厚い月刊誌)を台代わりにゲーム(3DS)をやりながらの会話だった。
私「ねぇ、いま、ゲームの世界、マンガの世界、アニメの世界、テレビの世界、どの世界にいるの?」
娘「私は日本という世界にいます。他の世界は見て(覘いて)いるだけで、行った事がないので分かりません。」
冗談っぽく笑う娘だったが、本心から言っているのが見てとれた。
この一言に日本のパラダイム転換のヒントがあるように思えた。
これはドラッカー博士のいう「西洋の日本化」のヒントではないかと。
彼女の世界観は日本で間違いないのだ。
せいぜい遠出しても、家内の実家と私の実家という二つの田舎まで。海外へ行ったら少し変わるのかも知れない。
この一言から、明治における文明開化の当時を推察してみたい。
当時の日本人は西洋文化を全く知らなかったので、全てが新しかった。
服、靴、帽子などの生活品や飲食物、食べ方、調理法、書物、それらを作る技術の何から何までが新しかった。
新し過ぎて、どう使って良いのか判断に迷った。
迷いながらも、新しい使い方や日本の文化に馴染むようにアレンジした。
この対応力の高さと技術習得力が文化の発展に寄与した。
西洋における既存の物を、新しい(日本らしい)使い方をした事あるいは新しい(日本らしい)解釈が加わった
(日本ではそれらの価値が変わった)事で、文化の上でイノベーションが起こり文明は開花したのではないだろうか。
文化と文化を融合させるバランス感覚は、日本人はやはり得意なのだと今更ながらに思えた。
今ある物(価値)同士を組み合わせて新しい物(価値)を創出する能力だ。
視野が狭い、意見が無い、と言われがちなわれわれ日本人の弱みの裏側にある、とんでもない強みがここにあるように思えてならない。