NHKで再放送している1987年大河ドラマ「独眼竜政宗」を視ると、毎回出ているわけではないのに、原田義雄さん演じる最上義光(出羽国山形の大名で政宗伯父・1546~1614)の存在感が際立っていることに気付かされます。その武勇は甥伊達政宗に勝るとも劣らず、領地の行政にも優れた手腕を発揮しましたが、なりふり構わぬ外交工作(縁組工作)へ傾倒したため家中を崩壊させ、やがて最上家は3代で滅亡しました。
義光は東北にいながら上方を中心とする中央の情勢に敏感で、豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)の3年くらい前から密かに動いています。相手は秀吉に臣従したばかりの徳川家康(当時は東海甲信で120万石)で、名家好きの家康は『最上氏が清和源氏の末裔で、長年足利将軍家から奥州探題(有名無実でしたが)に任じられていた』ため、義光からの接触を大変喜びます。根拠に乏しい徳川氏と違って、最上氏は正真正銘の源氏だったからです。長男最上義康(1575~1603)の康の字は、家康から譲ってもらいました。この縁を利用した義光は甥政宗と違ってスムーズに秀吉へ臣従し、本領24万石を安堵されます。そしてその恩に報いようと、次男家親(1582~1617)を家康の家臣へ差し出します。家親の家は当然ながら家康の家です。
ここで止めておけばよかったのですが、奥州仕置きのため山形へ立ちよった豊臣秀次(秀吉甥)へわざわざ娘駒姫(1581~1596)を体面させ、彼女を秀次の側室になるよう仕向けます。秀次が強引に奪い取ったという説もありますが、伊達成実(政宗重臣)の記録によれば義光が自ら献上したとあります。直前に秀吉実子の鶴松が夭逝したため、秀次が次の関白になることが決定的だったからです。しかし1595年に秀次が豊臣秀頼(秀吉実子)の誕生により粛清されると、駒姫が連座の罪で殺されてしまいます。京都に到着したばかりで、まだ秀次と体面する前だったにも関わらずです。さらに義光も政宗と共に罪を問われますが、家康の取り成しにより辛うじて事なきを得ました。この悲劇を機に義光は家康に傾倒し、翌年の伏見大地震の際には秀吉ではなく家康の元へ救助に駆けつけました。しかしこれに懲りずまたもや余計なことを義光はしでかしました。何と三男義親(1582~1614)を秀頼の小姓に差し出したのです。
1600年の関ケ原の戦いで義光は迷わず家康に味方し、上杉景勝を攻撃した武功により57万石に大加増されます。しかしこうなると自らの後継者に家康が可愛がっている次男家親を据えたくなり、長男義康の存在が邪魔になってしまいます。義康は大変な名君で家臣や弟義親からも慕われていたのですが、何と義光は1603年に義康を暗殺してしまいます。これには家臣たちが大変憤慨し、怒りの矛先は自然な成り行きとして次男家親に向けられます。それでも義光が死ね1614年初頭までは不穏な空気がおさえられていたのですが、父が死に新当主となった家親が豊臣秀頼と親しかった弟義親を殺したこと(家康にアピールする意味で)を機に、最上家中は完全に分裂してしまいます。そして家親はその3年後に急死したのですが、徳川実記には家臣による暗殺と記録されています。さらに13歳で藩主となった息子義俊も家臣たちから孤立(最上騒動)し、遂に最上家は5年後に改易されます。義俊が父家親が家臣に暗殺されたことを徳川幕府へ訴えたためだと言います。
秀吉だって家康だってさすがに何の落ち度のない大名を罰したり改易するわけにはいかないわけですから、『普通に忠誠心を示し、余計な縁組などしなければよかった』と我々歴史ファンは思うわけですが、策士策に溺れたのは戦国乱世を生き抜いてきた男には無理からぬことだったのかもしれません。