豊臣秀長(1540~1591)が国内統一後にやりたかった統治構想については、彼が満50歳で死去したことやその史料や記録も少ないため、明確な方向性やイメージがなかなかつかみにくいのが現状です。しかし秀長の重臣だった藤堂高虎(1556~1630)が徳川家康の側近として構築した幕藩封建体制のシステムを見ていけば、秀長が構想していたであろうビジョンが容易にわかるのです。
豊臣秀吉が晩年に断行した二度の朝鮮出兵(1592~1598)は、政権の弱体化に繋がる失政だとよくいわれますが、一方で朝鮮半島で命を落とした5万人を除けば、『日本人は戦国乱世から脱した平和な時間を久々に過ごすことができた』という見方もあります。しかし実際は武士も庶民も乱世を越えるような辛酸をなめていたのです。応仁の乱から始まった乱世は、敵対勢力が作物を刈り取って灌漑施設を破壊するなど、農民を著しく疲弊させました。従って全国統一を成し遂げた秀吉は農地を復旧させて国民を安堵に導くべきだったわけですが、二度の外征に必要な大量の刀と槍を製鉄するため、その燃料となる木材を全国の山林から余すことなく伐採しました。禿げ山になったことにより土壌が侵食したり保水力が減少し、農作物の生産に多大な悪影響を及ぼしたのです。さらに秀吉が大坂・堺・京都の商人たちに全国の市場を独占(外征の原資として)させ、地方の人物金もほしいままに収奪しました。重病だった秀長が見舞いにきた前野長康に『あまつさえ武威を張り外国まで切り従え大軍を相催す愚事、最も多大なる費えに諸将は労し、百姓の窮乏は明らかなり』と最後の力を振り絞って告げたのは、こうなることを予期していたからなのです。
秀長亡き後にこのような惨状を経験した高虎は、中央政庁が地方や地域を食い物にして栄えるような中央集権統治に対し、疑問あるいは批判的な視点を持つようになります。そして地域特性に見合った地方分権統治(藩の自治を認める)こそが、武家政権による長期平和時代に繋がると考えるようになります。そのためには藩(地方地域)が中央政庁や上方資本に依存しない自立を実現しなければならず、テクニカルな部分では『藩内の流通改革(上方に依存しない)、城下町における商業特区造成、陸運水運向上による外来者の藩内消費拡大』を、精神的な部分では次のような教訓を残しました。
『大名は幕府から藩を預かっているに過ぎず、それは決して私するものではない。当座の預かりものという意識と責任が求められるのだ。優秀な藩主の元へは自然と有能な武士が士官を求めにくるし、商人職人も集まり、百姓が逃げ出すこともない。逆に悪い藩主は公のために働く意識に乏しい家臣を多く抱えたり、効率性を追及する努力をしない』
もちろんこのお手本にまったく従わないような凡庸な藩主もおり、彼らは改易され多少の淘汰はありました。しかし諸藩より広い幕府直轄領では将軍から派遣された代官が地域と癒着し、職務怠慢、公金浮流し、収賄、年貢滞納などの背徳行為が後を絶たず、五代将軍綱吉が大粛清を断行する始末でした。従って大名家の方がむしろ善政が敷かれたケースが少なくなかったのです。江戸時代に260年に及ぶ長期平和が続いた理由は、鎖国政策や身分統制政策より、地方分権統治体制により藩と幕府がが適度の緊張感を保持し、地域地方が独立採算を実現していたからにほかなりません。
死ぬまで漢字が書けずひらがなしか読めなかった高虎でしたが、以上のような完成度の高いシステムを構築できたのは、主君秀長が農業にも商業にも精通した名君で、そのブレーンとして千利休や古渓宗陳らが側にいたからに違いありません。もちろん本人の資質も優れていたのでしょう、見事に旧主の志を継承しました。