秀頼誕生から秀次切腹を時系列解説 | 福永英樹ブログ

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 文禄4年7月、関白豊臣秀次が叔父太閤豊臣秀吉の命令により切腹し、豊臣政権下の大名たちは大いに動揺します。そして5年後の関ヶ原の戦いでは、秀次に心寄せていた大名たちのほとんどが徳川家康に味方することになります。結果的に豊臣家滅亡の契機となる秀吉の愚行だったわけですが、秀次殺害へ向けての狡猾さと我慢強さは異常ともいえる凄まじいものがありました。そこで今日は豊臣秀頼誕生から秀次切腹までのプロセス(エピソード)を、以下に時系列で解説していきたいと思います。


【文禄2年8月】

・豊臣秀頼誕生

【9月】

・秀吉が『全国の4/5の領地を秀次へ、1/5を秀頼へ与える』と宣言

・秀次は持病の喘息が止まらなくなり、伊豆熱海で湯治治療する

【10月】

・秀吉が秀次娘と秀頼の婚約を発表

【11月】

・秀吉が尾張代官(秀次領地)の検地が生ぬるいと厳しく叱責する


【文禄3年1月】

・秀吉が隠居所に過ぎなかった伏見城を大名動員の上で拡張(大名屋敷増設)し、大坂城の惣構も普請する

・秀吉が伏見と大坂の水運を向上させるため、宇治川の水流を伏見湊へ迂回させる工事を前田利家に命じる

【2月】

・秀吉が秀次を伏見城へ招いて茶会と花見を主催するが、途中で秀次側近の山内一豊を激しく折檻する

【3月】

・秀次が大和郡山城を訪れ、菊姫(豊臣秀長次女)と豊臣秀俊(後の小早川秀秋)の婚約式の仲人を務める

【4月】

・秀吉が岩姫(秀長養女)を大名森忠政と結婚させる

【7月】

・秀吉が自らの旗本の妻子を伏見城へ定住させ、毎日のように有力大名の屋敷を訪問する

【8月】

・秀吉が秀俊を小早川隆景の養子とし、菊姫との婚約を破棄させる

【10月】

・秀吉が家康を引き連れて聚楽第(秀次居城)を訪問する

【12月】

・秀吉が池田輝政(秀次正室の兄)と家康の娘を結婚させる


【文禄4年2月】

・秀吉が菊姫を毛利秀元と結婚させる

・会津92万石を領する蒲生氏郷の病死により、秀吉が嫡男秀行を御家騒動を理由に減封しようとするが、秀次が関白として92万石襲封を正式に承認する

・それを知った秀吉は、秀行襲封の条件として家康の娘と結婚することを厳命する

【3月】

・秀頼が大坂城から伏見城へ移住

・石田三成が常陸国佐竹家を検地

【4月】

・豊臣秀保(秀次実弟)が大和十津川で溺死する

【5月】

・秀吉が大和豊臣家を改易

・藤堂高虎が高野山で出家

【6月】

・秀吉が高虎を独力大名にする

【7月】

・秀吉が秀次を高野山追放の上で切腹させる


《解説》

 秀頼誕生で秀次や大名たちが動揺する姿を見た秀吉は、『領地のほとんどを秀次に継がせる』『秀次の娘を秀頼と婚約させる』などと宣言して周囲を油断させます。しかし秀吉が自分に気を配るポーズを見せれば見せるほど、秀次はより恐ろしくなって湯治場へ逃げ出します。そして翌月になると秀吉は一転して秀次の代官を叱責し、翌年正月には隠居所に過ぎなかった伏見城を大名たちに命じて拡張します。当然秀次は動揺しますが、翌月になると秀吉はまるで秀次の憔悴ぶりを確認するように、茶会花見という口実を設けて伏見城へ彼を招いたのです。さらにその席にいた山内一豊(秀次家老)を、理由不明ながら激しく折檻したといいます。

 それでも何とか気を取り直した秀次は、仲が良かった小早川秀秋(当時は豊臣秀俊)と秀長次女を婚約させるために、実弟秀保のいる大和郡山城へ赴きます。ところが秀次兄弟の連携を恐れた秀吉は、以後秀保を孤立させることに注力します。まず秀長養女を森忠政と結婚させ、秀秋も小早川隆景の養子にして秀次が決めた秀長次女との縁組を破棄させます。さらに秀長次女も毛利秀元と結婚させました。そして秀頼と旗本の家族の伏見移住が完了すると、わざわざ見せつけるように家康を連れた上で、秀次がいる聚楽第を訪問したのです。つまり『お前の弟は無力化し家康もわしのサイドにいるぞ!』という恫喝です。そしてまんまと秀保を謀略により暗殺(藤堂家譜による)した秀吉は、その家老の高虎を大名に抜擢して四国に退けた上で、秀次を粛清しました。石田三成は常陸や薩摩の検地を秀吉から命じられていて上方には不在だったため、戻った時には秀次はどうにもならない立場に追い込まれていました。


 まだ織田信長の家臣だった若かりし頃の調略や城攻めのように、秀吉は緻密で抜け目のない策を次々と行動に移していきました。その点ではさすがだったわけですが、その源となる動機が個人的な感情(実子可愛さによる我が儘)に過ぎませんでしたから為政者としては失格です。つまり『家臣庶民の生活や平穏のために天下人として政治を安定させなければならない』という視点や理念が、豊臣秀吉という人物にはまったく欠落していたということですね。