関白秀次による二度目の聚楽第行幸 | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀吉が天正16年(1588年)に後陽成天皇の行幸を聚楽第(関白政庁)で受けたことは有名ですが、天正20年(1592年・文禄元年)に新関白 豊臣秀次が行幸を受けたことはあまり知られていません。そこで今日はそれぞれの行幸に供奉(おとも)した大名たちを確認し、この間に政治情勢がどのように変わったかを見ていきたいと思います。


※行幸の流れ

①関白が行列を率いて御所参内し、天皇に行幸の準備が整ったことを伝達

②天皇が参議以上の公家を率いて聚楽第へ向かう

③前駆(先導役)・関白(旗本随行)・此次(後尾)の順で天皇の後を追う


■天正16年(関白秀吉)

【天皇供奉】※参議以上

公家衆、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(大納言)、徳川家康(大納言)、豊臣秀次(中納言)、宇喜多秀家(参議)

【前駆】

・秀吉直臣大名

石田三成、大谷吉継、増田長盛ら74人

【此次】

・豊臣一族

豊臣秀勝、豊臣秀康(家康次男)、豊臣秀俊(後の小早川秀秋)

・織田一族

織田秀信、織田信包

・旧織田系大名

前田利家、蒲生氏郷、堀秀政、細川忠興、丹羽長重、池田輝政、長谷川秀一、森忠政


■天正20年(関白秀次)

【天皇供奉】

公家衆のみ

【前駆】  

・秀次付家老

堀尾吉晴、中村一氏、田中吉政、山内一豊、渡瀬繁詮

・秀次直臣大名

前野長重、熊谷直之、木下一元、駒井重勝ら16名

・豊臣秀保重臣

羽田正親、横浜茂勝、本多利久、多賀秀種、宇多頼忠

・外様大名嫡男

津軽信建、南部利直

・秀吉直臣大名

石田三成、大谷吉継、増田長盛ら44人

【此次】

・豊臣一族

豊臣秀保、豊臣秀勝、豊臣秀俊

・織田一族

織田秀信、織田秀雄

・旧織田系大名

前田利長、細川忠興、池田輝政、稲葉定通、長谷川秀一、筒井定次


 天正16年の時点で秀吉の全国統一事業は道半ば(関東や東北は未平定)で、かつて同僚だった旧織田系大名たちへの遠慮もありました。従って彼はこの天皇行幸を最大限に利用し、自らが天下人であることを世間にアピールする必要がありました。それでも信雄ら主筋を立てており、前田利家ら旧織田系大名たちも自らの直臣大名よりワンランク上の「此次」に列しました。


 これに対して天正20年の行幸は、文禄の役(第一次朝鮮出兵)の直前ということもあり、天皇家と関白家を結ぶプライベートな式典の意味合いが濃くなっています。徳川、前田、毛利、蒲生、上杉らの有力大名は不在で、代わりに新関白秀次の付家老や直臣大名たちが表舞台に立つようになります。さらに秀次末弟の秀保(秀長の後継者)の重臣や、外様大名の嫡男たちが名を列ねていることが特徴です。三成ら秀吉直臣大名は人数合わせのために派遣された印象です。相変わらず旧織田系大名たちを豊臣直臣大名より格上の「此次」に位置付ける気遣いはありますが、明らかに秀吉が先を見据えた秀次新体制の構築を進めようとしていました。秀次の付家老や直臣大名は朝鮮半島へ渡海しませんでしたし、弟秀保は秀長のような将来の関白補佐役にしたかったのでしょう。またこの頃には、国内行政を三成ら秀吉直臣大名から秀次の直臣大名へ委譲する動きもありました。前野長康については外征の軍監を担当していましたので、まだ秀次の家老にはなっておらず、嫡男の長重のみが秀次の側近として仕えていました。後に秀次謀叛首謀者の汚名を着せられた木村常陸介も、まだ秀次には関与していなかったようです。おそらく翌年に豊臣秀頼が誕生したタイミングで、調整役として長康と常陸介は秀次に仕えたのでしょう。もちろん秀吉の命令によるものです。


 以上天正20年の聚楽第行幸に参加した大名たちを見ていくと、秀吉のみならず秀長の構想を感じさせる人事で、豊臣政権が秀次へ本気で権力継承を進めようとしていたことがわかります。無謀な外征もありましたが、やはり秀頼誕生が何もかもを台無しにしてしまったというこどですね。前野長康ら天正20年の名簿から欠落してしまった人たちの多さが、それを物語っています。