秀吉が重用した光秀旧臣の津田重久 | 福永英樹ブログ

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 山崎の戦い(1582年)で明智光秀が敗死すると、勝者羽柴秀吉による徹底した残党狩りが断行されました。しかし罪を免れた武将もあり、絶世の美女だった妹を秀吉の側室に差し出した京極高次や、光秀から任されていた丹波亀山城をあっさりと秀吉に渡した木村吉清(本能寺の前から通じていたという説あり)などがそうです。ただ山崎で2000人もの兵を光秀から任され羽柴軍を苦戦させた津田重久(1549~1634・信春?)については、しばらく行方不明のままでした。


 重久の津田姓は織田信長の親戚筋の津田ではなく、足利幕府官領細川氏に仕えた名家でした。従って光秀が幕府を滅ぼした信長に謀叛した際も、先鋒として積極的に参戦しました。山崎の戦いで一隊を担ったのは、猛将勇将としての定評が既に織田家中で評判だったからです。ところが密かに川を渡ってきた秀吉の奇襲隊に崩され、重久は命からがら紀伊高野山まで逃走します。しかし秀吉は重久の居場所を知りながらあえて生かしていたのであり、しばらくして赦免の通知を重久に送ります。半信半疑で秀吉の元へ出向きますが、秀吉はなかなか現れません。これは殺されるなと思った時、突然秀吉が現れてこう言われます。

『来訪して幸いだったな。来なければ高野山へ刺客を差し向けるところだったぞ。生かせば役に立つそちじゃ、これよりは奉公武功に尽くせ』

 顔面蒼白となった重久はすっかり固まってしまい、晩年までこの時の秀吉の威風を側近に語ったといいます。その後賤ヶ岳の戦いや九州平定でも活躍した重久は、秀吉から関白豊臣秀次の家臣になるよう命じられ、大名並みの従五位下遠江守に任官します。秀次が失脚すると多くの大名からスカウトされますが、最終的には前田利家・利長父子に1万石で仕えます。関ヶ原や大坂の陣でも活躍し、86歳の長命を保ちました。


 全盛期の秀吉は一端敵に回った人間でも許して生かすことが度々ありました。つまり心に余裕があったんですね。また勿論全国統一の途上でしたから、粘り強く我慢しなければならなかったこともあるでしょう。これが頂点にたって絶大な権力を手にすると、抑えが利かなくなって人望を失い、どんどんどんどん精神的に孤立してしまったわけですから、為政者とは難しいものです。やはり信長の重臣時代から徳川家康を臣従させるくらいまでの秀吉は、猛将重久を震撼させたように輝いていました。