豊臣秀吉の正室だった寧(高台院・1548~1624)の実家は、実兄家定の息子たちが繋げた木下氏(備中国足守藩2万5千石と豊後国日出藩2万5千石)と、結婚直前に養女に入った浅野氏(安芸国広島藩42万石)が後世に繋げています。石高に差があるのは義弟浅野長政(1547~1611・五奉行)が非常に有能だったこともありますが、木下家(当時は杉原家)の実母である朝日殿が秀吉との結婚に大反対したのに対し、叔母の七曲殿が嫁いでいた浅野長勝(長政の養父)が、織田信長の後押しもあって非常に好意的だったからと言われています。つまりここで秀吉の心証に差が出てしまったというわけです。しかし寧自身は意外にも浅野家とは疎遠で、逆に木下家の甥たちに対しては徳川家康から叱責されるほど再三にわたって世話を焼いています。
1981年のNHK大河ドラマ「おんな太閤記」では、寧とその実妹とされる長生院(長政正室・?~1616・やや)は実の姉妹として描かれていましたが、浅野氏の研究者によれば、長生院は長勝が七曲殿と再婚する前に亡くなった先妻との間にできた娘としています。つまり二人は実の姉妹ではなかった可能性が高く、寧にとって浅野家とは『叔母の嫁ぎ先』かつ『秀吉と結婚するために利用した養家』に過ぎなかったということです。長勝と叔母七曲殿との間には子供がありませんでしたから尚更です。その証拠に長政と長生院の長男である浅野幸長が関白秀次粛清事件に連座して流罪になった際に、寧が秀吉にとりなしをしたという記録史料がまったくありません。とりなしをして幸長が大名に復帰させたのは、家康と前田利家(長政の兄貴分)でした。また長生院との交流や彼女が姉に先立ち死去した際に弔った記録もなく、寧が熱心に看病して高台院で弔ったのは実母朝日殿と叔母七曲殿でした。また最近の研究では寧は石田三成と非常に親しく、彼の三女辰姫(後の津軽信枚正室)を養女にしたくらいですから、三成と仲が悪かった浅野長政・幸長父子とはむしろ嫌悪だったのです。僅かに杉原長房(寧の従兄弟)が長政の末娘と結婚したという記録があるくらいで、両家自体も疎遠だったようです。従って家康が関ヶ原に勝利してから浅野氏を非常に優遇したのは、寧の養家だったからではなく、長政父子が前田利長(利家嫡男)を徳川に屈するよう仕向けたことや、関ヶ原で幸長が奮戦したからということになります。また寧は大坂城で人質時代の徳川秀忠を我が子のように可愛がっており、それを恩に感じていた秀忠とはかなり親密でしたから、浅野氏などを頼る必要がなかったのかもしれません。また彼女の死去翌年に死んだ智(秀吉姉)とも交流していた記録がなく、秀吉の親族とも一定の距離を置いていたふしがあります。少し孤独なイメージは拭えませんが、実子がなかった分、自由で欲に縛られない自分らしさを貫いた生涯でした。