太閤豊臣秀吉(1537~1598)の二度にわたる朝鮮出兵(1592~1598)における日本軍の死者は、約五万人と言われています。そのうち戦死者は僅かで多くが餓死 凍死 病死だったそうですが、対する朝鮮軍の戦死者は数十万人にも及んだそうです。また日本に連行された捕虜や奴隷も数万人いたと記録されています。ところが朝鮮半島の人口の推移を見ていくとまるで桁が違い、出兵前年の1591年には1409万人だったものが1600年以降は1063万人へ大幅減少し、300万人以上の朝鮮人が失われたことになります。戦死者は数十万でも、国土が荒廃して餓死者や病死者が途方もなく増えたということなのでしょう。これは太平洋戦争で亡くなられた日本人(兵隊と民間人あわせて)とほぼ同規模で、豊臣秀吉という歴史上の人物の類を見ない罪深さを現しているといえます。織田信長が伊勢長島一向一揆の信者たち二万人を焼き殺したことでサイコパスなどと言われていますが、秀吉が殺害した人数は桁が2つくらい違うのです。それに少なくとも信長のそれは『天下統一のための戦い』という建前や大義名分がありましたが、秀吉の外征は細川幽斎から『そもそも大義もあいなく、仁愛もあいなき軍事(いくさごと)』と批判され、前野長康からも『それがし御陣仕りて三十有余年、釜山浦の出来を思うにつき、まことに空虚の御陣なり』と酷評される暴挙だったのです。誰よりも秀吉を知る弟豊臣秀長が死の病の床から外征反対を訴えたのも、兄の残虐性が多くの人間を不幸に陥れることを予想したからだと思います。従って石田三成がどんなに徳川家康に対抗しても、後ろ楯だった秀吉の暗い影が常に彼につきまとつていましたから、次々と運気が奪い取られたということなのでしょう。家康にも欠点はありましたが、彼は少しでも戦いによる死傷者を無くすよう終生努めていました。