島津義久と豊臣秀長の親交を恐れた秀吉 | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀吉と豊臣秀長の仲はどうしても『死ぬまで良好だった』としたい方には不本意だと思いますが、天正14年頃(1586年・秀吉50歳 秀長47歳)から兄弟の絆に亀裂が入り始めました。まず秀長が四国征伐に出かけている隙を狙って、秀吉が秀長養子(仙丸)の兄である丹羽長重に難癖をつけて大幅減封したこと。次に秀吉が妹旭を強引に夫と離縁させた上で、徳川家康と政略再婚させたこと・・。そして決定的だっのが、翌天正15年(1587年)の九州征伐後に一旦認めた『秀長による島津氏の処遇』を、秀吉が理不尽な形で覆したことです。


 激戦だった根白坂の戦いで秀長率いる日向方面軍が島津軍に大勝利したことにより、当主島津義久は頭を丸めて降伏の意を示します。義久の弟島津義弘がいまだ戦意盛んだという情報を得ていた秀長は、両軍の被害を最小限にしたいという義久の意向に同意し、兄秀吉に『薩摩・大隅・日向のうち諸県郡のみを安堵して降伏を認めて欲しい』と伝えます。秀吉はこれを一旦了承しますが、義久が秀長を仁将と讃えて慕っている様子を見てふと不安になります。彼は弟が自分以上の人望や人脈をもつことを恐れたのです。

 そこで秀吉は側近 石田三成を使って島津家老の伊集院忠棟と交渉させ、秀長による島津氏への処遇を勝手に次のように覆しました。

・薩摩国 島津義久 

・大隅国 島津義弘

・大隅国肝付郡 伊集院忠棟

・日向国諸県郡 島津久保(義弘息子で義久養子)


 何と当主である義久の領有は薩摩のみとし、三成ルートで新たな人脈を築いた義弘と伊集院を優遇したのです。これは越中征伐の論功行賞で前田利家の息子利長に直接領地を与えた際と同じ手法で、秀吉が当主の親族や家老と個人的に人間関係を構築して有力大名を骨抜きにすることが目的でしたが、同時に秀長の勢力を抑えたわけです。


 豊臣へ臣従したあとの義久は、秀長の紹介で家康とも親しくなり、秀長が重病になった時はわざわざ薩摩から大和郡山城まで見舞いに訪れています。家康も何度も見舞ったと言いますから、もしかしたら義久と連絡を取り合っていたかもしれませんね。