羽柴兄弟の正念場だった三木城攻め④ | 福永英樹ブログ

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④秀長が兵糧補給路を全滅させる

 順調だった秀吉の出世街道の中でも、天正6年(1578年)はこれまでに経験したことのない屈辱にまみれた後退の年でした。しかしこれにめげないのが秀吉が秀吉たる所以(脅威のバイタリティ発揮)で、翌天正7年(1579年)はマイナスを一気に払拭するような巻き返しを図っていきます。そんな意気盛んな三木城攻めの陣中で、ちょっとした事件が起きます。近江長浜城にいた養子羽柴秀勝(信長四男)の小姓だった加藤孫六(後の嘉明)が、許しもなく城を抜け出し、播磨の秀吉の陣に姿を現したのです。これを知った秀吉の妻寧は激怒して『孫六を解雇するよう』迫りますが、秀吉は彼の忠誠心を高く評価して直臣としています。つまり足軽出身の秀吉の家中には代々の譜代家臣が不在だったため、孫六のように意欲がある者にとってはチャンスに溢れていたのです。

 1月に羽柴軍がかなりの三木城への兵糧補給路を断つことに成功すると、事態を打開するため2月6日に城主長治の弟が率いる2500人の別所勢が城を抜け出し、夜明けに秀吉の本陣がある平井山を急襲します。しかしそれはあらかじめ秀吉が見抜いており、待っていましたとばかりに別所勢を取り囲みます。奇襲は失敗し長治の弟は戦死しました。この結果毛利から三木城への兵糧補給の拠点は淡河城(今の神戸市北区で三木市の東に隣接)だけとなり、5月になると秀長率いる但馬勢がとどめをさすべく攻略に乗り出します。


 ところが敵方の城主がなかなかの知恵者で、羽柴の陣中に多くのメス馬を放ちます。秀長の家臣たちが乗ったオス馬たちが興奮狂騒し、羽柴陣中は大混乱に陥ります。これを見た城方が急襲したため、羽柴軍は敗走を余儀なくされます。もしかしたら夭逝したとされる秀長嫡男の木下与一郎は、この戦いで戦死したのかもしれません。それでも秀長が粘り強く反撃したため、淡河軍は城を抜け出し、多くの死傷者を出しながら三木城へ逃げ込みます。苦戦はしましたが、これにより毛利から三木城への兵糧補給路は完全に断たれたのです。


※次回「⑤竹中半兵衛の遺言」へ続く