片桐且元を助けた織田信雄(大坂の陣直前) | 福永英樹ブログ

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 賤ヶ岳の七本槍の一人である片桐且元(1556~1615・豊臣秀頼の傅役)といえば、徳川家康と秀頼の間に入って和平に奔走したにもかかわらず、秀頼の側近たちに家康との内通を疑われ、失意のうちに大坂城から退去した悲運の武将として知られています。そしてそんな且元が秀頼の側近たちから殺されそうになったところを救ったのが、誰あろう織田信長の次男で暗愚といわれた織田信雄(1558~1630)だったのです。


 慶長19年(1614年)7月26日、家康は秀頼が建立した京都方広寺の鐘の銘文が自らを呪ったものだと疑い、秀頼に謀反の意があると断定します。驚いた且元はすぐに駿府城にいた家康の元を訪問しますが、家康は次の3案のうち秀頼がいずれかを選ぶよう厳命します。


・秀頼を江戸に参勤させる

・淀殿(秀頼母)を人質として江戸に置く

・秀頼が国替えに応じて大坂城を退去する


 家康の実力を知り豊臣家への忠誠心もあった且元は死力を尽くして秀頼を説得しますが、新東鑑によれば、これを受けた秀頼は母親淀殿の従兄弟である信雄に相談したそうです。当時の信雄は関ヶ原の戦いで石田三成に味方したため改易され、淀殿を頼って大坂城に寄宿していたのですが、秀頼の重臣たちはいざ家康との合戦の折りには彼を大将にまつりあげようと目論んでいました。しかし家康に旧恩(1584年の小牧長久手の戦い)がある信雄は、あくまでも徳川と豊臣の共存を望んでいました。

 秀頼は淀殿の側近たちが『家康からの条件を飲め』と説得してきた且元は裏切者だと言ってきたが、且元の首をはねるべきだろうかと信雄に問います。信雄は『且元は忠義の士であり、女の言うことを真に受けて彼を殺害するのは末代までの恥です』と返答します。納得した秀頼は側近の大野治長にこれを伝えますが、治長らは淀殿と共謀して殿中で且元誅殺を画策します。しかし淀殿の侍女の一人が信雄家臣の妻で、企みを知った彼女がこの計画を信雄に密告します。信雄は自らの家臣を且元の元へ送り、大坂城の即時退去を勧めます。また自らも家康の意向により大坂城を脱出したのです。


 結局且元はかねてからの病気により大坂落城直後に死去してしまいますが、この信雄の助力により片桐家は存続しています。暗愚暗愚といわれた信雄ですが、さすがに様々な経験を経た57歳になって物事を広く冷静に考える深慮が身に付いたのでしょう。秀頼が彼の考えを理解しながら母親や側近に押しきられたのは残念でしたが、信雄と二人で豊臣家存続の道を模索してしていたことがわかり少し嬉しく思いました。