西軍結集を家康に密告した伊東長実(秀吉旗本) | 福永英樹ブログ

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 徳川家康が石田三成の大坂挙兵を知ったのは慶長5年7月20日といわれており、彼が陸奥国会津の上杉景勝を討伐するために立ち寄った下野国小山で増田長盛の使者から知らされました。よく知られているように家康はそこで会議を開き、従軍していた大名たちに大坂挙兵を伝えたわけですが、実は家康はこれ以前に大坂で不穏な動きがあったことを知っていたのです。長年豊臣秀吉の旗本(馬廻・黄母衣衆)として仕えてきた伊東丹後守長実(1560~1629)が、6月16日に家康が大坂を発して東へ向かった当日に、『三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)と安国寺惠瓊(毛利家外交僧)が挙兵の談合をしている』ことを知らせていたのです。


 長実は三成と同じ歳ですが、彼の父は山内一豊・堀尾吉晴・前野長康らと同じ織田伊勢守家(尾張国守護代)に仕えていました。織田信長が伊勢守家を滅ぼして羽柴秀吉が近江国長浜城主になると、14歳だった長実は父と共に羽柴家に臣従します。馬廻として主君を守った彼は三木城攻めや賤ヶ岳の戦いで武勇を発揮し、24歳で平野長泰(賤ヶ岳の七本槍)の与力として960石を与えられました。しかし出世に淡白で秀吉と気が合わなかったといわれた長泰の影響を受けたのか、30歳を過ぎて1万石を与えられても大名にはならず、秀吉の旗本(馬廻組頭)の役割にこだわりました。同僚には秀吉の右筆で、後に関白豊臣秀次粛清に連座して流罪となった木下吉隆などがいました。実は秀吉の本当の側近とは三成や大谷吉継のような大名ではなく、長実や長泰や吉隆のような旗本だったのです。つまり秀吉の良いところも悪いところも知り尽くしていたのが彼らなのです。そんな長実に契機が訪れたのが、秀吉の死去と家康の台頭です。


 長実が家康に密告した頃は三成はまだ近江佐和山で謹慎中でしたから、彼は『上杉討伐に批判的とされた三奉行が、安国寺を通じて毛利輝元らを大坂に結集させようとする談合があったこと』を伝えたのでしょう。家康こそ次の天下人の器であり、毛利や奉行たちでは平和が保てないという判断があったと私は想像します。ただ目に見える動きはまだありませんでしたから、家康は感謝して頭の中に留め置いたのです。それでも下野小山で初めて知らされるのと、前もって覚悟しておくのとは大違いです。


 関ヶ原の戦いの後も長実は引き続き豊臣秀頼に仕えますが、55歳で迎えた大坂の陣が勃発すると、再び家康のために大坂城の内情を京都所司代に密告しています。また冬の陣が終わって和議が成立すると、長実は二代将軍徳川秀忠と秀頼の処遇について会談しています。和平が破綻し彼は徳川軍による残党狩りで捕らえられますが、恩を感じていた家康は長実を備中国岡田の大名に遇しています。