どうしても豊臣秀長を秀吉に従順な弟にしたい人たち | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 拙著「志 豊臣秀長伝」を2013年に刊行した時、ある読者様からこんな感想をいただいたことがありました。6歳の秀吉が父親竹阿弥(秀長実父)が実父でないことを知り、痴呆症になっていた実父木下弥右衛門を初めて目の当たりにする場面があるのですが、『秀吉が可哀想じゃないか! 何でわざわざこんなシーンをつくるんだ?』というお叱りです。これ以外にも失政が増えてきた晩年の秀吉を描いた場面に対するご批判はいくつかあり、改めて日本における秀吉の根強い人気を感じたものです。しかしだからと言って、弟秀長をあくまでも秀吉に従順だった単なる名補佐役だったとするわけにはいきません。1985年に注目された堺屋太一さんの名著の頃には少なかった秀長にまつわる情報が、武功夜話など平成になってから新たに複数入ってきたからです。


 私も天下取りを決めた賤ヶ岳の戦いくらいまでの秀吉については、彼の才能や魅力を余すことなく描いたつもりですが、その頃でさえ秀長は兄とは一味違う一面を表していました。一つはリスクの高い墨俣砦構築への協力を渋る蜂須賀小六に対し、この戦いは主君織田信長が全国を統一して泰平の世を築く足掛かりだから、是非助けてほしいと懇願した場面です。もう一つは堺商人でもあった茶人千利休と意気投合し、羽柴家の財政を織田家で抜きん出た存在にしたことです。つまり秀長が秀吉に全力で協力したのは平和政権樹立のためであり、その維持のための手法も外征による覇権主義ではなく、貿易などによる重商主義だったのです。


 そして九州平定直後くらいから、明らかに秀吉とは意見が違ってきます。その最大のものは朝鮮出兵への徹底した反対で、これに賛同した盟友千利休は、秀長が病死した直後に秀吉に殺されています。また秀長を兄のように慕っていた家老藤堂高虎が豊臣家を見捨てて徳川家康に傾倒したのも、秀長と同じ長期平和政権の創設を家康が志していたからです。しかしそのことは、長い間歴史ファンに知らされることがありませんでした。そうなったのは石田三成と藤堂高虎への徹底した悪評です。秀吉の悪政失政のほとんどは三成がしくんだものとされ、関ヶ原で家康に負けた彼は江戸時代260年を通して悪の権化でした。つまり秀吉はまったく悪くなく、三成が足を引っ張っただけという加藤清正や福島正則と同じ論理です。また高虎はいち早く豊臣家を見捨てて家康に近づいた恩知らずとされ、立身出世のためだけに生きる冷酷な人物にしたてあげられました。しかし二人に対する研究が進みその人物像が見直されるようになると、自然と秀吉晩年の堕落が明らかになり、弟秀長の存在意義がどんどん上がってきました。昨年のNHK大河ドラマは視聴率こそ苦戦して評価も厳しかったわけですが、こと秀吉に対する厳しい視点については間違っていなかったと私も思っています。


 熱狂的な秀吉ファンの皆さんには厳しい時代が到来したわけですが、だからと言って秀長を過小評価して単なるお人好しにしたてあげてしまっては、賛美称賛して気持ち良くなるだけのつまらない歴史になってしまいます。