人質にとった大名の息子を優遇した徳川家康 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 徳川家康といえば、少年時代に隣国の大勢力だった今川義元の人質として長年軟禁される苦難があったことで大変有名です。そのせいか後に天下を狙う家康が大名の息子たちを人質にとった際は、彼らを非常に優遇しています。


【大友義乗・1577~1612】

 義乗が17歳の時、父大友吉統(豊後国の名族大名)が朝鮮出兵における敵前逃亡の罪で豊臣秀吉から改易されてしまいます。明軍に包囲されていた小西行長を見捨てたことで、秀吉から臆病者と激しく叱責されたからです。この際義乗は父親から引き離され家康に預けられますが、名家好きな家康は300石を与えて彼を家臣にします。秀吉が死去して吉統が天皇による恩赦(豊後帰国)を受けると、家康は可愛がっていた義乗にチャンスを与えます。豊後へ戻って敵対する西軍大名の領地へ攻め入れば、大友氏を豊後一国の大名へ復帰させるというものでした。ところが慢性アルコール中毒だった吉統は毛利輝元に唆されて家康の好意を断り、東軍の黒田官兵衛や加藤清正と戦ってしまいます。戦後再び吉統が常陸国へ幽閉され、義乗の立場も危うくなりますが、家康は彼を3300石へ大幅加増し、江戸幕府の高級旗本として遇しました。義乗は豊後にいた一部の家臣を江戸へ呼び寄せたといいます。


【最上家親・1582~1617】

 出羽国の大名最上義光は秀吉に臣従した時から家康に敬服していたようで、自ら次男家親を徳川家へ差し出しています。そして豊臣秀次の側室となった娘が連座の罪で秀吉から殺されると、ますます家康に傾倒し、伏見大地震が起きた時は秀吉ではなく真っ先に家康の元へ駆けつけました。さらに関ヶ原の戦いでも家康のために上杉景勝を牽制した義光は、24万石から58万石へ加増されます。こうなると家康の側にいる家親に家督を譲りたくなり、3年後に義光は何と長男を不慮の死として殺してしまいます。家親は無事家督を継ぎますが、兄を慕っていた重臣たちも多くおり、最上家は家親の息子(改易)の代まで内紛が耐えませんでした。


【細川忠利・1586~1641】

 細川忠興の三男だった忠利は、忠興が関ヶ原で家康に味方する証として15歳で徳川家の人質に出されます。長男は前田利家の娘を妻としていましたが、忠興夫人のガラシャが石田三成の圧力により死んだ際に、利家の娘が前田家に逃亡したことに忠興が激怒し、長男に離縁するよう命じます。しかし長男がこれに応じず出奔したため、忠利が忠興の後継者に定められます。もちろん家康と二代将軍秀忠の強い後押しがあったからです。ただ細川家を継ぐのは自分だと思っていた次男が大変憤慨し、彼は後の大坂の陣で豊臣秀頼に味方して殺されてしまいます。


【浅野長重・1588~1632】

 豊臣家五奉行浅野長政が前田利長と共に家康から謀反を疑われた際、彼は三男長重を江戸に人質として差し出します。それでも家康は長重を可愛がり、長重と自らの養女を結婚させ5万石の大名とします。大坂の陣の前に長政長男の浅野幸長が38歳の若さで実子を残さぬまま病死(長政も既に病死)すると、重臣たちは家康と親しい長重を新たな当主にしようと運動します。家康は喜んだそうですが、長政正室のやや(秀吉正室寧の妹)が頑として反対し、次男長晟を紀伊国37万石の後継者に定めます。長重の分家は忠臣蔵で有名な播磨国赤穂藩へと繋がっていきます。


 以上の四家を見ても家康は人質の苦労を味わった大名の息子たちに大変な肩入れをしたわけですが、それが大名家の家督争いによる内紛に繋がったケースが少なくなく、いわゆる「ありがた迷惑」だったのかもしれませんね。為政者の善意による権力の濫用は、時として意図せぬ悲劇を招いたわけです。