宇喜多秀家と寧を首謀者とする説について(関ヶ原西軍) | 福永英樹ブログ

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 1月16日に投稿した「石田三成の冤罪を晴らす⑤」では、関ヶ原の戦いの首謀者は三成ではなく、実は三奉行(増田長盛 長束正家 前田玄以)と安国寺恵瓊(毛利氏外交僧)だったことを記事にしました。徳川家康が上杉征伐へ向ってから、西軍による伏見城攻撃が始まるまでの出来事(1ヶ月)を詳細に分析した結論です。しかし近年になって注目されている別の説には、首謀者は7月1日(5日説もあり)に豊国神社で戦勝祈願をした宇喜多秀家(五大老・1572~1655)と寧(北政所・豊臣秀吉正室・1548~1624)だとするものもあります。まずはその1ヶ月を再確認していくことにしましょう。


6/16:家康が上杉征伐のために大坂を発する

6/18:近江へ到達した家康の耳に、長束正家が夜襲を仕掛けるという噂が入る

7/1:秀家が東殿(寧の代理・大谷吉継の母親)と共に豊国神社で戦勝祈願する

7/2:家康が江戸城へ到着する

7/7:三奉行が金森長近(飛騨国大名)を西軍へ勧誘する

7/11:前田茂勝(玄以嫡男)が伏見城を偵察する

7/12:三奉行が毛利輝元へ大坂入城を要求する

7/13:庶民の間で大坂不穏の噂が流れる

7/15:輝元が大坂入城

7/16:秀家と小西行長が大坂入城

7/17:毛利秀元が徳川留守居役を大坂城から追い出し、三奉行が「内府違いの条々」を全国の大名へ送る

7/18:三成が合流して伏見城攻撃が始まる


 先に秀家と寧は首謀者ではないとする研究者の主張を見ていくと、二人が戦勝祈願したのはタイミング的に上杉征伐のためであり、東殿の息子である大谷吉継もまだ三成から打倒家康の説得を受けておらず、大谷隊が家康を追って会津へ向かおうとする頃と一致しているとしています。また秀家の正室豪姫(秀吉養女)が同じ頃に大和長谷寺へ戦勝祈願の願文を奉納していますが、彼女は家康に味方していた前田利長の妹であり、秀家が家康に従うことを前提に奉納したというのです。さらにこの時期の宇喜多家は複数の重臣が離反した御家騒動の直後で余裕がなく、その騒動を裁断して解決をしてくれたのは誰あろう家康でした。


 一方秀家と寧を首謀者とする研究者の主張はこうです。吉継の母親と小西行長の母親は寧の侍女(側近)であり、最側近の孝蔵主の親族も西軍へ味方しており、三成の三女振姫も寧の養女だった。従って寧は明らかに西軍寄りである。また行長が明国と和平交渉(1594~1596)をした際の提出文書には、秀家 行長 三成 吉継 増田長盛の五人を豊臣政権の中核(大都督)に位置付けてほしいと記されており、彼らはかなり早い時期から秀家を盟主とした豊臣政権を想定していたという見方です。


 両者の意見をなるべく公平に分析判断した結果、やはり秀家と寧は関ヶ原の首謀者ではないと私は考えました。7月1日にはまだ三成は近江佐和山で孤立していましたし、三奉行も安国寺を使って毛利へ協力を求める前でした。それでも秀家に『単独で打倒家康を号令するほどの覇気と意欲』があったとすれば、敗戦後の家康からの処断も八丈島流罪ではすまなかったに違いありません。また寧が自分の子供でもない豊臣秀頼のために、そんなリスクの高い行動をするでしょうか? さらに彼女は夫秀吉が実力で織田家を乗っ取った様をその目で見てきたわけですからね。従って順番としてはまず三奉行が安国寺と謀って毛利を取り込み、次にそれを三成と行長に示すことにより賛同を得ていき、さらに三成が吉継を説得し、そして最後に行長がかつての旧主である秀家に陣容を示して誘ったという流れだと思われます。ただ秀家が関ヶ原で大変な奮戦をしたことは間違いのない事実であり、秀吉の数多い養子の中で彼だけがその期待に応えたわけです。