石田三成の冤罪を晴らす ④朝鮮在陣大名に対する讒言 | 福永英樹ブログ

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 五大老前田利家が死んだ翌日、かねてから遺恨を抱いていた加藤清正 福島正則 加藤嘉明 黒田長政 細川忠興 浅野幸長 池田輝政の七将が、大坂城下の石田三成屋敷を襲撃しました。しかし佐竹義宣の報告により事前に察知した三成は、宇喜多秀家の援助もあり大坂を脱出して伏見屋敷へ逃れます。七将は五大老筆頭の徳川家康へ三成の引き渡しを求めますが、家康は北政所や毛利輝元と相談の上で三成の居城佐和山への謹慎隠居を決定します。罪状は慶長の役(第2次朝鮮出兵)における蜂須賀家政と黒田長政に対する処罰について、三成がねじ曲げた報告を太閤豊臣秀吉へしたからとされました。しかし実際は当時三成は上方に不在であり、朝鮮から帰国した軍目附 福原長尭が報告した相手は、三成を除く四奉行でした。しかし七将は福原が三成の妹婿であることから、三成一人に矛先を向けたのです。事件の発端となった蜂須賀と黒田の処罰について、その実相を探っていきましょう。


 良く知られているように秀吉が慶長の役に踏み切ったのは、文禄の役(第1次朝鮮出兵)の講和交渉で明国が朝鮮半島南部の割譲に応じなかったからです。1597年の春から始まった二度目の外征は、7月に藤堂高虎らの水軍が朝鮮水軍を破り、8月には宇喜多秀家を大将とする軍勢も全羅道の城を攻略します。さらに9月には毛利秀元を大将とする軍勢も忠清道へ侵攻して明軍を撤退させますが、彼は総大将でもある宇喜多に全軍の南下を提案します。文禄の役で日本軍が秋以降の厳しい寒さに苦戦したことを耳にしていたからです。そこで宇喜多は日本軍の防衛拠点を半島南端に近い場所に定め、加藤清正と浅野幸長に築城を任せます。しかし12月下旬になると、その城が明軍57000人に急襲されます。清正と幸長は2000の兵で籠城しますが兵糧が足りません。これを知った宇喜多は、翌1月に毛利秀元 蜂須賀家政 黒田長政らに20000の兵を預けて救援させ、明軍を見事に蹴散らします。しかし日本軍は追撃したもののあえて深追いはせず、宇喜多以下諸将たちは軍議で戦線縮小を決めて連判状を作成します。餓えに苦しみながら籠城した兵や、救援して負傷した兵が多かったこともありますが、秀吉の許可を待つ間にまた明軍の急襲がある可能性も高かったからです。

 福原から連判状を見せられた秀吉は激怒し、蜂須賀は帰国の上で秀吉から任されていた豊臣家直轄領を取り上げられ、黒田は厳しい叱責を受けます。しかし連判状を実質的にまとめた宇喜多と毛利には何の咎めもありませんでした。それは二人が秀吉のお気に入りだったからであり、宇喜多秀家は養女豪姫の婿で、毛利秀元は弟豊臣秀長の娘婿でした。つまり蜂須賀と黒田は見せしめとして秀吉に利用されたのです。また黒田長政の妻は蜂須賀家政の妹でしたから、連帯責任ということなのでしょう。福原は彼らが秀吉の公式命令(許可)を待たなかったことを告げたわけですが、おそらく豊臣政権内の派閥闘争を前提とした政治的意図はなかったと私は考えています。ただこれが義兄の三成に悪い影響を及ぼすということに気づかなかったわけですから、そういう意味では無能だったかもしれません。何にしても遠く離れた現場の裁量権が少なかったのですから、不満や文句があるなら権限を持った秀吉が現場にいくべきでした。かつて文禄の役で三成が秀吉に半島への渡海を勧めたのは、実状を知って欲しかったからなのです。そんな身勝手な秀吉に振り回されて損を一手に引き受けたのが石田三成であり、彼は秀吉の負債を死ぬまで払い続けたのです。