不思議と接点がなかった秀長 高虎主従と前田利家 | 福永英樹ブログ

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 当ブログもお陰様で開設から10年を過ぎ、戦国時代とりわけ豊臣政権における人間関係や交友関係については様々な記事を投稿させていただきました。そこで最近になって気づいたことなのですが、豊臣秀長 藤堂高虎の主従と五大老 前田利家の接点が極端に少ないことがわかってきました。不仲を示すような一次史料があるわけではありませんが、知り得る限りのエピソードや記録を元に、その根拠を探っていきたいと思います。


 豊臣秀吉がまだ足軽大将だった20歳代半ばの頃、彼は重臣たちが居並ぶ軍議や評定の席で、度々主君織田信長へ直訴して自らの策を語ったといいます。これを苦々しく思って辛く当たったのが重臣 柴田勝家といわれ、秀吉と勝家は賤ヶ岳の戦いで決着がつくまで相容れぬ仲でした。逆に秀吉を庇ってくれたのが同じ重臣の丹羽長秀でしたが、それは長秀がかねてから勝家のことを快く思っていなかったからです。理由はかつて信長弟の織田信行が謀反を起こした際に、勝家がそれに同調して信長を亡き者にしようとした経緯があったからです。信長は潔く過ちを認めた勝家を許して重用しましたが、長秀や秀吉は容易に納得しなかったようです。しかしそんな勝家を兄のように慕ったのが秀吉の親友 前田利家で、逆に長秀と兄以上に昵懇となったのが豊臣秀長でした。利家は勝家を親爺殿と呼んで何でも相談したそうですが、それ以上に秀吉とは親密でした。利家が刃傷沙汰で信長から追放されていた時期に、秀吉が世話をやいて経済的援助をしたからです。一方秀長の初名 木下小一郎長秀の「長秀」は、丹羽長秀から譲り受けた可能性が高いのです。また秀長が長秀から三男仙丸(後の藤堂高吉)を養子(娘婿)に譲り受けたのは、従来本能寺の変の直後に秀吉が勝家に対抗するために丹羽家を取り込む縁組だといわれてきましたが、近年仙丸祖父の杉若無心が本能寺以前から秀長の重臣だったことが判明し、両者がかなり前から親睦を深めていたことがわかってきました。


 そんな織田主従に本能寺の変という激震が襲い、秀吉と勝家による織田家における主導権争いが本格的します。長秀は長年の旧交から賤ヶ岳の戦いでは秀吉秀長兄弟に味方しますが、利家は秀吉からの旧恩が有るにも関わらず合戦当初は勝家に加担します。しかし柴田軍が劣勢になった途端に裏切って羽柴軍に味方し、戦後は秀吉から加賀北半国を加増されます。私が考えるに、この戦いで前線にいた秀長は佐久間盛政の猛攻で多くの家臣を失いましたので、利家の要領の良過ぎる振る舞いを複雑な思いで見ていたと思っています。一方丹羽家はこの2年後に長秀が病死したことにより、秀吉が急速に嫡男丹羽長重(仙丸の兄)を軽視するようになります。些細なことで大幅な減封(123万石→4万石)をしたり、丹羽家重臣の長束正家らを強引に引き抜いて直臣にしたのです。さらに秀長の養子だった仙丸まで廃嫡(姉の三男秀保を後継者に)する命令を下したため、仙丸を可愛がっていた秀長は一時的に兄と不仲になってしまいます。秀長重臣だった藤堂高虎が石田三成と相談した結果、仙丸は実子のいなかった高虎の養子にする案が上申され、秀長は渋々了承します。一方前田家は秀吉から異例の厚遇を受け、利家嫡男の前田利長には越中攻めの恩賞として越中国が与えられます。信長の下では能登21万石に過ぎなかった前田家が、とび抜けた武功があったわけではないのに83万石に加増されたのです。


 そんな状況に不満だったのか、秀長は利家より徳川家康と親しくなっていきます。家康が妹旭と再婚したこともあったかと思いますが、これが後の高虎の家康傾倒の契機となりました。また小田原征伐の前に秀長が重病になると、家康 細川藤孝 島津義久 毛利一族 豊臣秀次らが大和郡山城まで見舞いに駆けつけていますが、利家が訪問したという記録は皆無です。また利家と親しかった浅野長政 幸長父子についても、不思議なことに秀長や高虎との親交を伝えるような記録が一切ありません。さらに秀吉死去後に家康と敵対したする利家を慕って大坂城に駆けつけた加藤嘉明は、高虎とは晩年まで犬猿の仲でした。


 そして天下分け目の関ヶ原を迎えると、遂に前田利長と丹羽長重が北陸の地で戦うことになりました。長重は当初家康に味方していたのですが、大谷吉継の策略により、行き掛かり上前田軍と槍を交えてしまい、結果的に西軍に味方したとして改易されてしまいます。一方利長は何の責めも負わず、それどころか丹羽家の旧領を加増(120万石へ)されています。これを知って怒ったのが長重の弟高吉を養子にしていた高虎で、長重と仲が良かった徳川秀忠を通して家康に丹羽家の無実を盛んに訴えます。家康は信頼していた高虎の言い分を良しとし、間も無く丹羽家は大名に復帰することになります。その後も何かにつけて高虎は丹羽家をサポートしており、長重は最終的に10万石の領地を得ています。高虎は死ぬまで旧主秀長と丹羽家の親交を守り抜いたのです。