上杉景勝を捨て石にすべきだった石田三成 | 福永英樹ブログ

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 豊臣政権三中老 中村一氏は徳川家康率いる東軍に属していましたが、関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日)の約2ヶ月前(石田三成挙兵の報告を受けた直後)に居城駿河国駿府で病死(50歳前後)してしまいます。彼は弟と幼い嫡男に遺言(東軍に味方するよう)を託しますが、その際に三成挙兵について次のように語ったそうです。

『治部少輔はもう30日あとで兵を挙げるべきだった・・』

 戦いの経験が少ない三成と異なり歴戦の武将だった一氏が指摘したのは、家康と彼が率いる豊臣家武断派大名たちが、上杉景勝(三成盟友 直江兼続の主君)の領国陸奥国会津に達して実際に戦いに及ぶまで、三成は腹を決めて待つべきだったということです。これは関ヶ原の勝敗が決まる前に一氏が語った言葉ですから、見事に家康勝利を予期した鋭さは本当に凄いです。


 西軍敗戦の大きな要因の一つは、家康と武断派大名が三成が想定した日程よりかなり早く美濃国へ到着したことでした。つまり三成の計算では、早くとも家康が西へ進むのは10月以降とふんでいたのです。しかし家康が『三成が大坂で挙兵した』という報に接した場所は会津の手前の下野国小山でしたから、東軍が上杉軍と戦うことはなく、家康は素早く頭を切り替えて三成討伐の準備を始めます。もし家康が三成挙兵の報を聞いたのが上杉と会津で戦いを始めた後であれば、こうはいかなかったことでしょう。槍を交えた以上東軍諸将も簡単には引き下がれなかったに違いなく、謙信以来屈強を誇る上杉軍も短い期間で屈することは決してあり得なかったからです。また家康が遅れながらも西へ反転したとしても、最低1ヶ月は実際より美濃到達が遅れたに違いありません。さらに攻められた上杉軍が南下する家康らを追撃した可能性も高かっと思われます。

 こうなれば西軍は近江大津城や丹後田辺城を落城させた後から決戦する時間的余裕が生まれますから、軍勢は名将立花宗茂を含めた12万人くらいに膨れあがったに違いなく、決戦場も三成が当初想定していた尾張か三河になっていたはずです。それではなぜ三成は、一氏が指摘したようにスケジュールをもう30日あとにしなかったのでしょうか?


・親友直江兼続がいる会津若松城が家康に攻め込まれる前に、自らの挙兵を家康の知るところとしたかった

・上杉討伐に従軍した大名たちへは三成が豊臣秀頼の名で家康を成敗すべき趣旨を伝えため、彼らのうちかなりの人数の大名が自分に味方すると予想した

・一度は自分に従った大名たちから翻って三成に味方する人間が出ることを憂慮した家康は、江戸からなかなか動けないと予想した


 豊臣秀吉の下で数々の行政や兵站を成功させてきた優秀なプランナー三成は、例え不慣れな戦いであっても、きっと自らのスケジュールどおり事が運ぶと信じきっていたのです。しかし戦いとは戦局がコロコロと変わる流動性の高いものでしたから、計算違いやイレギュラーに対応したり、最悪の事態に備える覚悟と手腕と経験が必要だったのです。つまり三成のプランは、自分に都合の良いように事が運ぶことを前提としたものだったのです。また家康が古参重臣 鳥居彦左衛門を伏見城で捨て石にしたように、上杉などは大局的に判断して犠牲になってもらえばよかったのです。結局上杉景勝は直江が催促するのを無視して、西へ向かう徳川軍を追おうともしなかったではありませんか。さらに残念だったのは、三成が秀吉子飼の大名たちが自分と同じように豊臣家に対して忠誠心があると信じきっていたことです。朝鮮出兵で辛酸を舐めた大名たちや、秀吉に粛清された関白秀次と関係が深かった大名たちが、秀吉や豊臣家に恩義などまったく感じていなかったことを三成は直視すべきでした。