前回は江戸幕府老中で二代将軍徳川秀忠の側近だった大久保忠隣が失脚するまでについて、表向きに明らかにされた事柄だけを記しました。そして今回はそれらの裏にあった派閥争いや親子の確執などについて、あらゆる記録や史料を参考にしながら追求していこうと思います。
1605年徳川家康は就任2年で将軍職を息子秀忠に譲り、自らは大御所(前将軍・実質的な院政)として駿府(今の静岡市)へ移住します。秀忠の家老だった忠隣が老中として江戸在住の新将軍を支えていくことになりますが、家康は本多正信を秀忠の指南役あるいは監督役として江戸城へ送ります。そして自らはあの石田三成並みの切れ者と言われた本多正純(正信の嫡男)を側に置き、本多父子の連携を利用する形で秀忠を遠隔操作しようとしたのです。秀忠は父家康に従順だったというイメージがありますが、家康死後にかなり父親とは違う政治や人事を断行したことを見ても、実は独立心が強い人でした。そのため家康が本多父子を通して自分を監視していることに内心ストレスを感じており、新将軍を決める際(秀康や忠吉も候補だった)に自分を強く推薦してくれた忠隣を頼りにし、時には愚痴をこぼすような間柄となります。ただ正信が忠隣と不仲だったかといえばそうでもなかったようで、実は恩人大久保忠世の息子である忠隣には協力的でした。忠隣が改易された時に、正信はわざわざ彼の母親や妻の無事を手紙で本人へ伝えています。しかし息子正純の方は何事も尊敬する大御所様本位の人でしたから、家康の意向や方針であれば、誰に対しても厳しく従わせることが少なくありませんでした。そのため彼は徳川譜代の大名たちから嫌われ、逆に譜代の代表のような位置にいた忠隣に人望が集まります。さらに秀忠正室の姉が豊臣秀頼の実母淀殿だったこともあり、秀忠や忠隣は豊臣系の大名たちとも親交がありました。それらを家康が苦々しく思うようになった矢先の1611年、忠隣の嫡男忠常が32歳の若さで急死します。一説には正純が暗殺したともされていますが、直後の1612年に正純重臣でキリシタンの岡本大八が、偽の将軍朱印状(加増を認める)をキリシタン大名有馬氏に渡し、6000両の賄賂を受けていたことが家康の耳へ入ります。激怒した家康は大八こそ死罪としたものの、正純に罪は問いませんでしたが、正純の立場にやや陰りが見えるようになります。しかし翌1613年1月、忠隣の養女が幕府の許可なく大名山口重政の息子に嫁いだことが問題となり、重政が改易されてしまいます。忠隣は立腹し養女の実祖父がこの婚姻を事前に届け出していたことを訴えますが、まったく受け入れられませんでした。さらにその3ヶ月後、忠隣が金山開発の専門家として家康に推薦した大久保長安が生前の不正により私腹を肥やしていたことが発覚し、忠隣の立場がますます悪くなります。そして同年1613年の年末、江戸から駿府へ帰ろうとする家康が、忠隣の居城がある小田原の手前で突如引き返すという事件が起きます。秀忠の使者が、豊臣家と内通した忠親の謀反を家康に知らせたからとされています。そしてその翌月である1614年1月に、キリシタン弾圧の仕事のために京都ににいた忠隣が、京都所司代から突如改易追放を言い渡されたのです。
家康が1616年に病死すると、まず忠隣を預かっていた近江の大名井伊直孝が秀忠に彼の無罪を訴え、忠隣の復職を願い出ます。秀忠は待っていましたという姿勢だったそうですが、忠隣本人が『家康様が決めたことをくつがえすのは不忠だ』として辞退します。どうにも腹の虫が収まらない秀忠は、1622年に宇都宮城釣天井事件(秀忠暗殺)というわけのわからない罪状を言い渡し、遂に正純を改易します。そして忠隣の孫の代で、幕府は大久保家を小田原城主として復活させたのです。
まあ断言できるのは、忠隣も正純も徳川将軍家に謀反する気など微塵もなかったということです。もしそうなら改易や追放などで済まされるわけはなく、間違いなく殺されていたからです。つまり二人とも家康秀忠父子の静かで根深い確執に翻弄された犠牲者だったということです。ただ太閤豊臣秀吉と関白豊臣秀次のような悲惨な結末にならなかったのは、間に入った忠隣や正純のような忠義の重臣がいたからであり、その点ではさすが徳川家臣団は豊臣のそれより質が高かったとと言わざるを得ませんね。