明智光秀を謀反に追い詰めた秀吉の凄まじい執念 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 豊臣秀吉が徳川家康を臣従(1586年)させて九州征伐(1587年)へ向かう頃になると、彼は子飼いの武将や九州の大名たちに、かつての主君織田信長の欠点を度々漏らすようになります。特に信長が明智光秀を重用したことについてはかなり根に持っていたようで、そこには本能寺の変(1582年)に至るまでの秀吉と光秀の厳しいライバル関係がうかがわれます。

 

 二人がしのぎを削り始めたのは、秀吉が中国地方の毛利氏を攻略する総司令官の座を狙い始めた天正5年(1577年)頃で、秀吉はまず信長の四男(羽柴秀勝)を自らの後継者にもらい受けたいと願い出ます。同族間の血みどろの争いの中で少年時代を生きてきた信長の心情を知る秀吉は、甥で秀勝と同い年の秀次が健在なのにも関わらず、『恩賞はすべて上様のお子様にお返しします』と告げて信長を大いに安心させたのです。また毛利勢力の東端に位置する播磨国の黒田官兵衛を信長に拝謁させたり、弟羽柴秀長に但馬国(播磨の北)の銀山を採掘させて献上したため、秀吉は見事に司令官の座を射止めました。

 しかし播磨最大の国人である三木城主別所氏が天正6年(1578年)に毛利に寝返ると、秀吉は一変して窮地に陥ります。対する光秀は丹波国(但馬の東)の波多野氏を滅ぼしてその地を恩賞として加増されたり、四国土佐国の長宗我部氏との和睦を完成させるなど、秀吉を上回る働きを信長に見せます。私はここで秀吉は腹を決めたと見ています。それは単に光秀に負けない武功を上げるのみならず、信長と光秀の仲を裂いて漁夫の利を得ることを決心したのです。つまり自分が信長に成り代わって天下人の座を奪うということです。実は信長が一向宗の総本山である摂津石山本願寺を長きに渡って攻め続けたことで、一向宗門徒の多い播磨の国人や庶民たちの心が、次第に秀吉から離れてしまっていたのです。秀吉は主君と彼らの間に挟まれて苦悩していました。

 

 奮起した秀吉は毛利方の播磨三木城、因幡鳥取城、備中高松城を攻め滅ぼすしますが、すべて味方の損害を最小限に留める兵糧攻めを徹底しました。例え長い時間をかけたとしても、来るべき時に備えて力を蓄えたのです。そしてその間には巧妙な自派閥拡大工作を秘密裏に進めています。まずは毛利方だった備前国の大名宇喜多氏の調略です。当初は軍師竹中半兵衛が手をつけたと言われていますが、彼が三木城攻めの最中に病死した後は、秀吉の旗本(石田三成?)が当時宇喜多家臣だった小西行長と交渉して成就します。信長は秀吉が無断で宇喜多を取り込んだことに激怒したそうですが、秀吉に上手く取り繕われてしぶしぶ承諾します。秀吉は9歳だった宇喜多秀家を養子にしましたので、実質的に宇喜多は織田というより羽柴に味方したのです。そして秀吉は四国阿波国の三好氏との連携を模索します。信長が光秀が和睦させた長宗我部氏が四国全域を支配する勢いを見せ始めたことを不快に思い、その討伐を考え始めたことに気づいたからです。長宗我部と敵対する三好氏を織田家に取り込むことで光秀の面目を失わせ、信長と彼の仲を裂こうと謀ったのです。何しろ甥の秀次を三好氏の養子として人質に出すほどの入れ込みようでしたから、秀吉にとっては正に勝負の一手だったのです。さらに秀吉は織田傘下の有力者にも手を延ばします。まずは秀長の息子が死んだことで、弟と仲が良かった次席家老丹羽長秀の三男を秀長の養子にもらい受けます。さらに丹波攻めで秀長と陣を共にした細川藤孝・忠興父子とも親交を深めます。丹羽との縁組は後の山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで協力を受ける要因になりましたし、細川との親交は山崎で彼らが光秀に味方しない要因となります。そして最後の仕上げは信長の側近たちを味方につけることでした。安土へ戻る度に堀秀政・蒲生氏郷・長谷川一秀などに豪勢な贈り物をし、彼らを大いに喜ばせたのです。特に堀は秀吉が美濃攻めの侍大将の頃からの旧知でしたから、信長周辺の情報は彼からタイムリーに得ていたようです。

 さあここまで準備万端整えば、秀吉は柿が自然に地面に落ちるのを待つばかりです。信長が必ず長宗我部を攻めるだろうと裏をとっていたからです。高松城を攻めながら、いつ仇討ちに行っても困らないように、山陽道を入念に整備していたのです。そうじゃなきゃ、中国大返しなんて物理的に不可能ですから・・。