北条義時が死守した坂東武者の政権は朝廷貴族と何が違っていたのか? | 福永英樹ブログ

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 NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人もいよいよ佳境となってきました。主人公北条義時は、平家討伐で共に戦った源義経や多くの同僚御家人たちの理不尽な死を乗り越え、最後は主君と仰ぎ奉った源氏の血筋さえ振り切り、坂東武者による武家政権(鎌倉幕府)を死守します。それでは彼がそこまでこだわった侍による統治とは、一体いかなるものだったのでしょうか? また従来の朝廷や貴族による政治と何が違っていたのでしょうか?

 

 武士の発祥は平安時代で、当初の仕事は朝廷や貴族の身辺警護でした。そして彼らは京都から遠く離れた夷狄から都を守るため、東国(坂東)へ派遣されました。しかしそのほとんどは貴族たちが馬鹿にするような荒れ果てた土地で、武士たちは自ら開墾し、その土地を弓馬の力で守らなければなりませんてした。つまり領地を守ることは領民を守ることてあり、生きる糧(農作物)を得ることで土地を価値あるものへ変えていったのです。従って生まれた時から御殿で過ごし、衣食に困らぬ暮らしを当たり前のように送ってきた貴族とは、背負ってきた境遇がまったく違っていたのです。

 

 領民あっての領地であり、人がいなければ領地は栄えない。武士にとって領民を守ることは、道徳や倫理観であると共に、正に生きる術でした。つまり北条義時が仲間の屍を踏み越えてまで築き上げた坂東武者の世とは、領民から搾取をするのが当たり前だった貴族的な支配者とは、統治の意味そのものが根本的に違っていたのです。