豊臣秀長病死から千利休切腹の間に何があったのか?! | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀吉の茶頭 千利休が秀吉の命令により切腹(天正19年2月28日)したのは、豊臣秀長(秀吉実弟)が病死(天正19年1月22日)してから僅か2ヶ月後のことでした。(この年は閏1月がありました) 当時から様々な理由が取り沙汰されていたようですが、秀長も利休も秀吉が計画していた朝鮮出兵に猛反対していましたので、秀吉が後ろ楯だった秀長を失った利休に仕返し(粛清)をしたのだと私は考えています。そこで今日は秀長病死から利休切腹までの2ヶ月間に何があったかを、時系列で確認していこうと思います。

 

・天正19年1月20日頃:秀吉から側室に望まれていた利休の娘が自害する。

・同1月22日:豊臣秀長が大和国郡山城で病死する。

・同1月26日:秀吉が織田有楽斎を伴って利休の京都聚楽亭屋敷を訪れるが、これが最後の秀吉訪問となる。

・同閏1月3日:細川忠興の家老松井佐渡守康之が聚楽亭屋敷にいた利休を訪問する。

・同閏1月8日:秀吉が聚楽亭でヴァリアーノ司祭ら30名のキリシタンと対面する。

・同閏1月11日朝:毛利輝元が聚楽亭屋敷にいた利休を訪問する。

・同閏1月11日~:秀吉が尾張国清洲で鷹狩を行う。

・同閏1月20日:秀吉が突如京都大徳寺の山門にある利休の木像を問題にする。

・同閏1月24日:徳川家康が聚楽亭屋敷にいた利休を訪問する。以後は誰も利休を訪ねなくなる。

・同閏1月27日:伊達政宗が清洲の秀吉を訪ね、奥州の百姓一揆扇動を否定する。

・同2月4日:政宗が聚楽亭の秀吉に拝謁する。

・同2月13日:秀吉が利休に堺追放を命じる。

・同2月26日:京都で秀吉についての落首が書かれる。『末世とは、別にはあらじ木の下の、さる関白を見るにつけても』 同日に利休が堺から京都に呼び戻され、秀吉の命令を受けた上杉景勝が屋敷を包囲する。

・同2月28日:千利休が切腹する。

 

 最も頼りにしてきた盟友秀長に死なれた上に、秀吉の側室になることを自害することで断った娘の行動を知った利休は、正に落胆失望のどん底だったと思われます。そして秀吉は、まるでそれを確認するように秀長死去4日後に利休を訪ねています。しかし利休は不屈の闘志を発揮し、政権内の有力者をさかんに茶会に招きます。もちろん目的は秀長の遺志を継ぐ朝鮮出兵反対の運動です。ところが利休が毛利輝元を招いた後あたりから、秀吉の行動が活発化します。鷹狩を名目に尾張清洲に足を運び、そこから大徳寺の利休の木像について非難し始めたのです。さらに家康が利休に招かれると、政権内のすべての関係者に利休と接することを固く禁じたようです。これはあくまでも私の想像ですが、毛利輝元が利休から朝鮮出兵反対に賛同するよう頼まれたことを秀吉に耳打ちしたのだと思います。彼は豊臣秀次が失脚した時も、秀吉に謀反計画をちくっていますからね。さらに最も力のある家康にまで利休が賛同を求めたことで、秀吉は利休追放を決心したのでしょう。ただ私は、利休が頭を下げてきたら秀吉は許すつもりだったと思います。しかし利休は北政所(秀吉正室)や前田利家といった親しい有力者たちに援助を乞うことを一切せず、一言も秀吉に申し開きをしなかったと言います。激怒させた落首事件もあり、秀吉もついに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。

 

 領地も兵力もない商人兼茶頭に過ぎなかった利休を、秀吉はなぜここまで恐れたのか? それは誰もが及ばない彼の強い影響力と広い人脈だったに違いありません。ただ秀吉も利休の政治顧問としての有能さは非常に高く評価していましたから、出来れば死なさずに使い続けたかったのだと思います。でも秀吉が想像していたよりずっと、利休という人物は強烈な偉人だったのです。