日本人の世界観を狭めた織田信長の死 | 福永英樹ブログ

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   16世紀中頃に渡来した南蛮人( キリスト教宣教師)の影響により、日本人の世界観は仏教によるインド(天竺)・中国・日本の3国だけのものから、世界地図や地球儀が示すアメリカ大陸やアフリカ大陸を含めた広いものに変わりつつありました。それはまだ一部の支配層のみが有する知識でしたが、全国統一を目前に控えた織田信長が、日本国内のキリスト教の布教を全面的に保護する政策を打ち出したことで、庶民の間にも新たな世界観が急速に広まろうとしていたのです。しかしご承知の通り本能寺の変(1582年)で信長が横死し、豊臣秀吉と徳川家康がキリスト教を弾圧し、徳川家光が鎖国したことで事態は大きく変わってしまいました。遂に世界地図にも地球儀にも接する機会を逸した庶民たちは、幕末まで従前の3国世界観で生きていくことになってしまったのです。

   よく信長がキリスト教を保護したのは、当時強大な力を持っていた仏教勢力に対抗するためと言われてきました。しかしキリスト教宣教師の在日トップに4時間続けて質問したという信長は、『キリスト教の布教と南蛮貿易が一体になっている』ことを鋭い感性で見抜いていたと私は見ています。(キリスト教の布教を認めないと、野蛮な国というレッテルを貼られ、欧州をはじめとする世界から相手にされないということです) また16世紀のキリスト教は、教会の権力組織より聖書を重視するプロテスタントが急速に勢力を拡大した時期でしたから、政教分離を信念とする信長にとっても流れに乗りやすかったはずです。つまりキリスト教が日本国の政治に干渉しない限り、キリスト教の布教を許す方が、貿易による海外進出を構想していた自身を助けることになると信長が確信していたということです。ただそれを性急に実行に移すことは、織田家の重臣たち(明智光秀を含めた)には極端な先走りにしか見えなかったのだと思います。当時南蛮人(スペイン・ポルトガル)・紅毛人(イギリス・オランダ)と呼ばれた欧州人たちの世界が、 土地よりも金銭の獲得を目指す重商主義だったのに対して、日本の武士たちはあくまでも領地(土地)の獲得により年貢収入を目指す農本主義だったからです。また商業とは自由に競い合う文字通り能力主義ですから、領主と武士と農民の主従関係で成り立っていた古い価値観の人たちには、なかなか理解しがたかたったのでしょう。彼らに粘り強く説明したり説得することは、表現力に乏しい天才信長には無理だったということですね(涙) 

  まあいずれにしても、信長とは大河ドラマのように『単に傲慢が過ぎて光秀に殺されるような矮小で単純な人物』では決してありませんでした。いずれ近代化や民主化の未来へ向かう日本人の可能性を大きく開くような、革命児・救世主だったのです。