天正7年(1579年)徳川家康は、同盟大名(実質的な主君)織田信長の厳命により、反織田勢力の武田勝頼への内通を疑われた自身の正室・瀬名と嫡男・松平信康を家臣に命じて殺害しました。この事件は信長が家康に圧力をかけるためにでっちあげたゴリ押しという説も根強いのですが、信長死後の家康の武田氏への扱いや傾倒ぶりを見ると、実は家康の心が信長と武田氏との間で大いに揺れていたのだと私は想像しています。それは家康が先年の三方が原の戦いで惨敗した故武田信玄(1521~1573)を、武将としてあるいは為政者として畏怖尊敬していたからにほかならず、家康が自分の気質と相通ずる目指すべき目標として信玄を位置づけていたからなのです。今回はこの見方を裏付けていくために、両者の共通点を探っていくことにしましょう。
■惨敗で学んだ大将ととしての心構え
元亀3年(1573年)甲斐国・信濃国・駿河国の太守・武田信玄は、遠江国・三河国に侵入する勢いを示します。当然自身の居城である浜松城に信玄が攻めてくると予想した家康は籠城の準備をしますが、信玄はここを素通りして一気に京都に進む姿勢を現します。プライドを傷つけられた家康は激怒し三方が原にて迎え撃ちますが、よく組織され機動力のある武田騎馬隊の前にあっけなく敗走し、家康自身も馬鞍に脱糞する無様な姿で城に逃げ帰ったといいます。家康からすれば『敵に自領の素通りを許せば、領民からの信頼を失う』という考えもあったのでしょうが、さすがにこの頃の彼は若かった(32歳)のでしょう。後年の家康では考えられないほど無謀で明らかに準備不足だったのです。武田の戦死者が200人だったのに対して徳川は2000人。大いに反省した家康は、自身の無様な姿を絵師に描かせてまでこの惨敗を己の戒めとしたのです。決して味方の損害が多大な負ける戦はしない信玄の大将・領主としての責任感や姿勢、そして野戦における家臣団の組織力と機動力…。以後の家康は、良い意味で慎重で重厚な武将に向かって成長していったのです。
■組織力・結束力重視の姿勢
あの信長が最も恐れた武将もこの信玄でした。なぜなら彼が終始一貫、信玄との直接対決を避け続けたからです。信玄が戦に臨む際の心意気として掲げた軍旗・風林火山とは、『疾きこと風の如く、徐(静)なること林の如く、侵掠すること日の如く、動かざること山の如く、動くこと雷の震う如し』という意味が込められたものですが、これは中国の孫子がつくった既存の兵法書を元にしています。またもう一つの信玄の名言は『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵』ですが、これは主従の絆と信頼関係や家臣団全体の組織力や結束力を非常に重視した彼の理念ともいえるものでした。これらが産みだした武田軍の圧倒的な強さに、信長は恐れ慄き、家康は手本にしていくわけですが、結局信玄は天下を手にすることが出来ませんでした。これにとらわれ過ぎたせいで家臣に気を遣いすぎて兵農分離が出来ず、そのせいで中央に繰り出す時期が遅くなり過ぎたからです。つまり信玄の弱点は行動力に乏しかったことです。これは家康にも共通しており、彼が実際に天下を手にしたのが60歳だったことがこれを証明しています。彼がもし健康オタクで長命でなければ、家康も信玄と同じ運命をたどったと思います。
■ブランド(名家)好きの悪癖
信玄は上杉謙信を永遠のライバルとして尊敬していたとよく言われていますが、実は謙信が守護代(長尾氏)の出であることで一段見下していたのです。甲斐武田氏は足利幕府が認定してきた守護大名でしたが、長尾氏の守護代とは守護大名の代理人に過ぎなかったからです。(織田氏・朝倉氏・三好氏なども守護代でした) ですから信玄は、守護大名の上杉氏を正式に継いでいた謙信ことを、死ぬまで『長尾』と蔑称しつづけたのです。塩まで送ってくれた謙信に対して、こんなくだらないことにこだわっていた信玄には正直がっかりしますが、これは家康も同様でした。将軍になった家康は何の力もなくなっていた名家を優遇した一方、豊臣秀吉恩顧の成り上がり大名たちを内心軽蔑していたからです。家康の息子の代において旧豊臣系の大名がほとんど改易されたのも、家康の意に従ったものと見て間違いないでしょう。(成り上がり者は許さんという偏見に満ちたい古臭いもの)
※家康は結局信長より信玄を選んだ。このことはその後のこの国の歴史に多大な影響を与えたのみならず、日本人の気質にさえ影響を及ぼした…。同じような記事が続いてくどいようですが、まあそういうことなのです。